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「避けて食べれば」いい人に僕の偏食が理解できないお話

この記事を書く前にタイトル画像を検索していて、面白い記事を発見しました。それは「異物混入」に関する記事(リンク先参照)なのですが、ただの食の好みの問題を「異物混入」というセンセーショナルなワードに置き換えて話をしているものです。例えば記事のもので言うと、よく言われる「酢豚にパイナップル」とか、「ポテトサラダにリンゴ」とか、そういうやつです。

僕自身、結構、偏食が激しい方なので、そういったものを「異物混入」とディスりたい気持ちは、本当によくわかり過ぎて困るくらいです。今回は、僕自身の「偏食」の秘密と、「偏食」で困ることなどを書いていきます。
ただ、これまで自分の人生「偏食家」で生きてきたので、いまさら「克服しよう」なんて1mmも思っていないことをご了承ください。

意外に周りにもいた「〇〇が食べられない」人

よく子供の頃に「食べ物の好き嫌いをするな」と躾を受けた人が多いと思います。僕自身もそうです。では何故、食べ物を好き嫌いすることが「悪い」ことなのか?を考えてみたことがありますか?

まず考えられることが「栄養バランスの偏り」。これが一番に来ると思います。栄養バランスが偏ることにより、健康面に不調が現れる云々…は書くのも鬱陶しいので省略しますが、まず、躾の動機付けになる第一になる理由であることは間違いないと思います。

ただ、僕自身がこれまで生きてきて思ったこと、そして高齢者福祉の仕事をするようになってから、特に思ったことですが、正直、「栄養バランス」云々や、「健康への影響」を理由に偏食を克服することに意味があるのかどうか疑問に感じることの方が多くなったのが、正直な気持ちです。

例えば、職場なんかで、他の人と一緒に昼食を取る機会とかあったりしますが、「〇〇が食べられない」とか「▲▲が食べられない」とか、普通に聞いたりしますし、実際に「魚が食べられない」という人も、そこそこいたりしました。そういう人達にも、見えないところで「偏食」があることでの苦労もあるでしょうが、普通に日常生活を送っているように見えます。その中には、子供に「好き嫌いはいけません」と躾をする立場の、子供の親になっている人だって普通にいます。

実際に、僕の職場にも、僕に負けずと劣らない偏食家の人がいて、その人は魚貝全般食べられないし、スイーツに関しても「あんこ」や「抹茶」が食べられない、と言った人が、そういう人でも僕の偏食に関して口を出してくることがあります。

「よけて食べればいいじゃない」

今まで、人生の中で両親も含めて、何度そう言われてきたでしょうか?
それで解決する問題であるならば、僕は「偏食における『異物混入』」にそれほど共感したりしません。
僕にとって、嫌いな食べ物は「異物」なのです。見るのも嫌なのです。

「嫌い」なものは「存在すら受け付けない」思考

次の主題に入る前に、1曲、自分の曲を紹介します。

I'm just movin' on

冷静装う振りはハナからしてない
余計な話が少し苦手なだけ

一緒なのが邪魔なら
個人プレーでもいいよ
「自己チュウ」と罵られても
それが効率よければ

ただ孤独でもいい
嫌われてもいい
愛想がなくてもいいよ

もう一人でもいい
Don't need keep you close to me
焦らず気取らず行こう

相手に近づく努力なんてわからない
自分の気持ちなんて決して人には見えない

グリーンピースが嫌いなら
よけて食べるといいよ
変だと思われてもいい
それで困らないならば

ただ孤独でもいい
生きていればいい
理解されなくてもいいよ

もう一人でもいい
Don't need keep you close to me
このまま変わらずいよう

ただ孤独でもいい
嫌われてもいい
空気読めなくていいよ

もう一人でもいい
Don't need keep you close to me
考えずにI'm just movin'on

ただ孤独でもいい
生きていればいい
理解されてなくてもいいよ

もう一人でもいい
Don't need keep you close to me
このまま変わらずいよう

考えずにI'm just movin'on

自分のペースで行こう

以上、歌詞まで掲載しましたが、これは「I'm Just Movin' On」という僕の曲にしては、非常に珍しく前向きな曲のタイトルなのですが、内容が全くそうではないのが自分らしい曲だと思います。

途中で、「グリーンピースが嫌いなら、避けて食べてもいいよ」というフレーズがありますが、これは僕自身の偏食ではなく、亡くなった僕の弟の偏食で、これも「偏食における『異物混入』」によくある「シュウマイの上のグリーンピース」のことです。
ただ、やはり弟も僕の弟なのか、グリーンピースが乗っているシュウマイは絶対に食べようとはしませんでした。

僕は「避けてなら食べられる」ものは、まだ「克服できる」「食べられる」範疇の偏食だと思っています。

弟が言うには、「避けても、色や臭い、味が移ってる」から食べられないのですが、それには全く僕も同感です。

僕の場合は、「シュウマイのグリーンピース」ではなく「ポテトサラダのキュウリ」「寿司のワサビ」が代表格です。
よく、「嫌いなものでも、調理方法を工夫して、おいしく食べられる」といったレシピとかを紹介する機会に触れたりすることがありますが、そんなものは、キュウリを抜いたサラダですら、味と臭いが残っていれば食べられない僕の前では無意味なレシピです。

「偏食すること」の人格形成への弊害

では、なぜ「I'm Just Movin'On」の歌詞に「避けて食べてもいいよ」と書いたのか?という話をします。

この曲は、確かに「I'm Just Movin'On」という志をテーマに書いたものではあるのですが、歌詞の内容が前向きなものではありません。
「避けて食べてもいいよ」「焦らず気取らず行こう」「自分のペースで行こう」これらは、今まで生きてきて、人から言われた言葉で、ほとんど自分の人生の役に立たなかった励ましのフレーズだったからこそ、敢えて歌詞に書いたのです。

この曲の歌詞で語りたい心理は、「結局、どう足掻こうと『偏食家』は『偏食家』のままで生きていくしかないんだよ」という、ある意味、人生の中の「達観」であり、「諦め」の心理なのです。

そこで、この記事を書くために見つけた記事の内容から引用して、「栄養バランス」や「健康面への影響」以外での「偏食」の悪影響を書いてみたいと思います。

・「食」での好き嫌いが多い人は、人間関係でも好き嫌いが多い

親が自分のことを棚に上げて、子供に「好き嫌いはいけません」と口を酸っぱくして躾をする理由、というのは結局、この一面に尽きるのではないのでしょうか?

では、これまで僕が偏食について、ツラツラ…といろいろ書いてきた文章に対して、ここまで読んだ人はどう思いましたか?
「めんどくさい人だな」とか、「食事に誘いたくないな」と、思ったりしませんでしたか?それが「正常な反応」なのだと思います。

実際、僕は自分で偏食が激しいことがわかっているので、外食をする機会というのが、基本的にマクドナルドのような「間違いがない」ものに限られてしまい「冒険する機会」を避けてしまいます。
それ故に、自分が他の人に比べて非常に「人生の幅を狭く」して生きてきたところがあります。

それに上述したように、グリーンピースが乗ったシュウマイは避けても食べられないくらいの、敏感な偏食家の場合、基本的に悪い意味で思考が偏りがちというか、悪い意味での「オール・オア・ナッシング」思考になっていることが多いので、人に対しても、その思考が働いてしまうことが多くあります。

例えば、人の「嫌な一面を見ただけで、その人が『嫌い』になって、距離をおいてしまう」ということで、人付き合いが長続きせずに、継続しづらくなってしまったり…と言ったことがよく起こります。
そして、「人を怒らせてしまったら、自分のことを全否定されたような気持ちになり、相手と距離を置くしかなくなる」といった事象なんかもそうです。
今となっては、頭の中で、それが「極端に偏った思考」で人を一面だけでしか捉えられていないことに気付いたりもできるようにはなりましたし、「嫌いな人」や「苦手な人」でも、表面上を繕うくらいの起点は効くようになったとは思いますが、根本は変わっていないと思います。

そう思うと、「偏食」はできる限りの努力をしてでも、克服していくべきものなのかな…と思ったりもするし、大人が口を揃えたように、「偏食を克服させよう」とする気持ちもわからないでもありません。

人生最後の晩餐は「チキンライス」で

職場の人と偏食について話していたときに、そのついでに「好きな食べ物」の話だって出てきます。その話題の中で、僕はこう答えました。

「人生、最後の食事はチキンライスがいいです」

そのチキンライスにも理想の姿があります。僕は、偏食の上に猫舌という、救いようがない味覚も持ってしまっていますが、僕は高校時代に学食で食べた「昼休み終わりギリギリまで売れ残った『冷めて、少し固くなってポロポロな食感』のチキンライス」が思い出の味なのです。とても個人の料理店に行って出てくるようなチキンライスではありません。

要するに簡単に言うと、僕は子供の頃に行った家族向けのレストランで見た「お子様ランチ」のメニューに胸がときめいた記憶が未だに冷めていない味覚をしている、いわゆる「子ども舌」のまま大人になってしまった人なのです。そういう人は決まって、「大人になったら「おいしさ」がわかるもの」が苦手で、例えばビールの苦みとか、ワサビなどの薬味の味とか、柿の渋みとか、そういうものの「おいしさ」が理解できていませんし、受け付けることができません。

食べ物以外の部分でも、基本的に「刺激の強い臭い」などが苦手で、例えば公衆トイレに入ることができなかったりします。イオンくらい、いつも清潔にしてあるような場所なら、まだ入ることができますが、博多駅のトイレくらい臭いが強い場所になると入れなくなります。
つい先日、20年ぶりくらいに福岡市内の通称「親不孝通り」にライブを見に行ったのですが、「親不孝通り」と言われて思い出すのが、基本、飲み屋ばかりが入っている雑居ビルの「嘔吐物の臭いがするエレベーター」なのです。それが苦手で、僕は基本、飲み屋街みたいなところに行かないのです。
僕の偏食の原因の根本的な部分は、そういう「過敏な部分」にあるのかな…と自分では思っています。

そして、自分自身で「偏食を克服する必要性」が、自分が生きていく中で「必要ないもの」に感じられてきたことがあるのも事実です。

僕は高齢者福祉の仕事をしていますが、その中で食事の場面になることもあります。今の高齢者、特に80代以上の人は戦時中、あるいは戦後、食べるものに困って、その中を生き抜いてきた人達というイメージが頭にありましたが、やれ施設の食事が不味いだのなんだの、食べられないものの話だの、いろいろ高齢者自身の話を聞いていると、「この人達は本当に戦中、戦後の食糧難を生き抜いてきた人達なのかな?」という疑問が沸いてきます。

そして、先述したように、子供を育てる立場の親である人達で、平気で「アレが食べられない、コレが食べられない」と言った話をしているのを普通にしている場面が普通にあったこと、そして大人になって、自分の食べ物の偏食を注意したり、口出しする人がいなくなったことで、正直、「偏食なんか直さなくても、この先、生きていけるな」と思いました。

唯一、「I'm Just Movin' On」の歌詞に込めたメッセージがあるとするならば、僕はそういうことを言いたかったんだと思います。

よくもまあ、自分の偏食を肯定し、正当化する記事に5000字以上もかけて、いろいろ語れるな…と自分で呆れたりもしますが、ここまで生きていると、何かしら人生の中で、自分の中で「生きづらい」と思うことがあったとしても、意外と、そのままにしていても、なんとか生きていけるものなのかな、と感じたりもします。それは自分の「偏食」の部分だけではなくて、いろんな部分も含めて。

直せるなら、直すに越したことはありませんが、自分を苦しめるくらいなら、直せないものを、無理してまで直す必要もないのかな、と開き直っても悪くないと思います。

そう解釈すると、ネガティブな発言でも、ある意味、ポシティブに捉えることができたりするのが不思議なものです。






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