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意外とあっけなく運転をやめさせたお話

高齢者の免許返納については、高齢者福祉に携わる仕事をする立場としても、車が生活に必要不可欠な地方に住んでいる立場からしても、常日頃から、いろいろ考えさせられる部分があります。
今回は、認知症が徐々に進行している母の免許返納というか、運転を諦めてもらった話です。

昨年の更新の時点で返納すべきだった、と後悔

母は今、70代前半なのですが、今まで高齢者福祉、介護に携わる仕事をしてきて、戦後生まれの人で認知症が発症した事例をほとんど見ることなく過ごしてきたため、僕自身も、母がこんなに早く認知症が進行するとは思いもしませんでした。家族だからこそ、特に信じられない気持ちでいました。

今、思えばコロナが出てくる直前あたりから、若干「物忘れ」が気になりだしたり、嗅覚が急に感じなくなった、といった症状が出てきた時点で、本当なら認知症を疑って然るべき対応をしていたら良かったのかな、と後悔したりもしましたが、過ぎてしまった時間のことを悔やんでも、時間は戻ってこないし、進行してしまった症状が改善する訳ではありません。

そして、最も油断した事例が、昨年の10月くらいに「物忘れ」の状態が少し生活に支障を来たすようになってきた頃に、地元の病院の物忘れ外来を受診したのですが、その受診結果が、「病変が認められるような脳の萎縮は見つからない」というものだったことで、母の状態が「認知症」という病名がつくものではないことで、問題を先送りしてしまったことでした。

実際、その頃には、調理をしなくなった、同じことを何回も話したり、質問したり、と言ったことの他に、「同じ買い物をするようになった」「洗濯物を元通りに片づけられなくなった」という症状が一番生活に支障を来たすようになっていました。
要するに、冷蔵庫にパックの卵があるのに、卵を買ってきたりして、家にパックの卵が3つも4つもあったり、晩御飯のおかずを僕に仕事帰りに買ってくるように頼んでいたにも関わらず、自分で買い物に行ってしまい、夕ご飯のおかずが重なってしまうなど、金銭的な部分でムダな出費が増えてきたことで、事態が少しずつ深刻になってきたのです。
その時点で、カード類や通帳を管理して、買い物に行かせないことも考えましたが、そこで数少ない母の社会参加の機会である買い物での外出の機会を奪うことで、どれだけ身体機能や認知機能が衰え、自宅での生活が困難になるか、と言ったことを考えると、多少の食品ロスや金銭的なロスに目をつぶってでも、できる限りは「買い物」の機会は奪わないでおこう、と思いました。

それから半年くらい経った、今年3月頃から、急に今まで使いもしなかった鍵を使って過剰な「家の施錠」をするようになり、「家に泥棒が入った」などの妄言が出てくるようになりました。いわゆる「物盗られ妄想」というものです。
実際に紛失したものもありますが、そのほとんどが母親自身の片付けの記憶ができていないことによるもの、あるいは僕が通帳やキャッシュカードなど大事なものを預かったことを記憶できていないことによるものでした。

そのときに立て続けに、いろんなものを『無くして』は、一緒に探す日々の連続で、仕事中にも容赦なく電話がかかってきたり、警察を呼ぼうとしたり、鍵屋を呼んでしまったり、などと大変な時期が続きました。

実際なら、そこで運転自体もやめさせるべきだったと思うでしょうし、僕も「他人事」なら、そう判断したでしょう。でも、それができませんでした。

僕は、母が運転をやめるとき、その時が「自宅での生活を諦めるとき」だと思っていたからです。

運転をやめる=自宅生活を諦める理由

僕が住んでいる地域は、まず通勤にも、買い物にも、車がないと生活できないような地域に住んでいます。一番近いコンビニでも、僕の足で徒歩20分以上。徒歩圏内に買い物ができる場所がありません。
そんな地域なので、仕事も車で40分かかる施設まで勤めに行っています。
選ばなければ、他に施設もあるのですが、給与や待遇の面などを考慮すると、なかなか近くの施設を選べないのが現状です。

一番近いバス停は徒歩2分以内にありますが、朝と夕方に1本ずつしかありませんし、さらに10分歩けば、1時間に2~3本はバスが来るバス停もありますが、車の便利さの恩恵に預かると、そんな公共機関を使うの不便で仕方ありません。

そんな状況で、「運転」という手段を失う、ということは、「その土地で生活することを諦める」ということに繋がります。

ただ、自分で運転することの代替手段が全くない訳ではありません。

自治体は、民間の公共交通手段に変わって、市のバスを運行していますし、買い物や食事にしても、配食や生協といった手段があります。
ただ、配食やヘルパーといった介護保険を使うサービスを利用するには、僕が家族として同居していることで「買い物が可能」である点と、母が「家事をする」という点においては身体機能の衰えがなく、近くなら運転が可能だと言うことで、サービスを受けることができませんでした。

あと市バスの利用についても、運転免許を持てない世代で言えば、高校生なら利用しやすいと思うのですが、高齢者が通院や買い物の足にするには、不便過ぎて、デマンドバスに至っては予約が必要だったり、いろいろと覚えることがあって、「気軽に使う」にはなかなか至らないのではないでしょうか?それに、僕の施設の利用者の話では、足が悪くて、なかなか乗れない人に対して、何の配慮もないどころか、乗るのを急かした、といった運営側の配慮のなさに対しても、高齢者に優しくない機関であることがわかります。
免許証を返納するような人が公共交通機関を使うには、大きなハードルがあることがわかります。そしてタクシーを利用するにも、利用料金が高すぎたり、あるいは行先が近所過ぎてタクシーの運転手にあからさまに嫌な応対をされるような話を多く聞くので、タクシーもなかなか使いづらい点が多いと思います。

そうなると車を運転できない高齢者は、必然的に自宅に引きこもるしかなくなるのでしょうか。

確かに、とっさの判断ができずに、失われてしまう命があることは否めません。ただ、それは高齢者に限った話でしょうか?
母は免許を取って、一度も交通違反で切符を切られたこともなければ、保険を使うような事故を起こしたこともありません。記憶にあるのは、認知症云々以前の話で、自宅の車庫で少し車体をこするくらいの事故を1度起こしたことがあるくらいです。
実際、それよりも運転が乱雑で、免許を返納した方がいい高齢者や認知症以外のドライバーがどれだけいるでしょうか?

2度目の免許証紛失をきっかけに

今年の4月に母は一度、「免許証を無くした」と警察に紛失届を出しています。しかし、それは自分が免許証を保管している場所を覚えておらず、「無くした」=「盗られた」という思い込みが一番強い時期だったからこそ、起こった事件でした。
実際に免許証は届けた後で、すぐに見つかったことで事なきを得たのですが、僕は2度目以降、同じことが起こったときは、「もう運転から手を引く時」と心の中に決めていました。

本当はその時点で運転免許返納を考えるべきであることはわかっているのですが、なかなかそれに踏み切れなかったのは、上の項で書いたような交通事情であることの他に、もっと大切なことがありました。

それは「運転できる」ことを維持することで、身体機能や認知機能の維持を図り、進行や低下をできるだけ食い止める意図がありました。
日常の足である車を運転できないことでの、活動量の低下や社会との接触が大幅に減ることで、生活に必要な身体機能の低下や、認知症の症状の進行、認知機能の低下のスピードが速まることは想像に難しくありません。実際、自分の仕事の中でも、そういった人達を多く見てきました。

確かに運転をしないことで、車を凶器にせずには済み、誰かの命を犠牲にするリスクは避けられるとは思いますが、それには大きな代償が伴うことを、特に安易に高齢者の運転を批判する人には、忘れないで欲しいと思います。
そして、運転をする、ということ、車を凶器にするリスクに、高齢者も男性も女性も若者を関係ありません。運転する人全てに、そのリスクがあることを忘れてはいけないと思います。

今回、母は2度目の免許証紛失をしました。
本来、免許証が入っているべき場所には「マイナンバーカード」が入っていました。もはや、「マイナンバーカード」がどんなカードであることも、よく把握していません。
もうそんな状態になってしまったら、さすがに免許証が見つかったとしても、母の家族としては、これから先、母を運転させることに、もう「不安」しかありません。

免許証の紛失がわかった時点で、僕は、母が運転できないように、車のカギを預かりました。その他、紛失したら困るような通帳・カード類も全て、僕が金庫付きのケースに入れて保管しています。これで母は車を使って外出をすることができなくなりました。

ただ、運転させるつもりはありませんが、免許証が出てきたら、また運転できる可能性として、車の処分については、本人の「唯一の希望」ということで処分を先送りにしました。

それ以来、時々、僕がカギやカード類を預かったことを忘れてしまうことはありますが、とりあえず、「運転できない」=「外出できない」という状況を自分なりに把握してはいるようです。
認知症の症状が疑われたときから、抑鬱的な状態になったり、原因不明の頭痛を訴えたりすることがありましたが、運転していた頃に比べて、体の不調や抑鬱的な状態が増え、布団やソファーで寝ていることが多くなったように感じます。デイサービスやリハビリとも契約して外出の機会を作ってはいますが、体の不調や、不定愁訴(※↓で説明します)を訴えられると、せっかく作ってあげた外出や気晴らしの機会も、僕が仕事に行っている間に、自分で「体調不良での休み」を連絡して行かなくなってしまうのが、今、直面している問題の1つです。

不定愁訴・・・患者からの「頭が重い」、「イライラする」、「疲労感が取れない」、「よく眠れない」などの、「なんとなく体調が悪い」という強く主観的な多岐にわたる自覚症状の訴えがあるものの、検査をしても客観的所見に乏しく、原因となる病気が見つからない状態を指す

最近は、自分自身の「物忘れが激しくなっている」ことに自分で気がついている様子が伺え、それを見えない「何か」のせいにするような「物盗られ妄想」のような訴えは減ってきましたが、それは確実に認知症の症状が進行している、というシグナルだと思います。
仕事で普段から認知症がある高齢者とは接してはいますが、はっきり言うと「仕事で接する」のと、「家族として一緒に暮らす」のは、全く別の範疇です。確かに、認知症への知識や理解がある分、その分、多少、何も知らない人が接するよりは良い対応ができるのかもしれませんが、認知症の症状の出方も、性格や生活への影響も、それに対する対応の仕方も、人の数だけあって、それぞれ違うことには間違いありません。

ただ、今回、母が2度目の免許証紛失をきっかけに、運転できなくなったことで、僕自身も少し母への接し方が柔らかくなったような感じがします。
それは、やっと僕自身が母の認知症を「受容」する段階に入ってきたのかな…と自分で感じたりしています。
運転を諦める以前は、本当に僕自身が母に対して、暴力をふるうのではないか、と思うくらい気が立って、そのやり場がなかったことも、母に対して、ただただ怒りと感情に任せて、壁を殴りつけたり、大声で暴言を吐いたこともありました。そんな対応は「虐待」に当たる行為で、仕事であれば介護職失格です。

短気は損気、とは言うけれど

僕は物分かりが悪い人や効率の悪い人が苦手で、特に一度した説明を二度する羽目になったり、同じ話を何回も聞かされると、心の中で相当イライラします。年齢のせいか、その辺は少し仕事の面では「この人はそういう人なんだ」と自分に言い聞かせることができるようにはなりましたが、逆に、これも年齢のせいか、ちょっとしたことでイライラすることも増えてきました。

元々、僕自身は他人との共同生活そのものに苦痛を感じるくらい、自分の生活に「他人」が侵入してくることにストレスを感じる方なのです。たぶん「結婚」とか「同棲」といったことには不適格な人格です。
元々、母は僕の生活に対して、ほとんど干渉してくることがなかったため、家族生活のストレスを、さほど感じることなく生きてきましたが、母の認知症状の悪化進行により、それが壊れていくことに多大なストレスを抱えてきました。母をいつ施設に入れようか、母にはできる限り長く住み慣れた自宅で生活してもらいたい、この2つの想いが常にせめぎ合っています。

認知症の人には、その人のやることや、言うことを否定せずに接する云々といった文言が、必ず認知症に関する資料には書かれているし、研修などでも必ず学習します。頭ではわかっています。自分のことを否定されたら…、自分自身がその立場になって考えればわかることもあります。

ただ、その知識があっても、まるで役に立たないほど疲れ切っているときだってあります。
怒って何が良くなるか、良くならないどころか、悪い影響が出ることもわかります。
でも、感情を抑えるのが間に合わないことだって、たくさんあります。

これまで、僕は母の前でも、あまり負の感情、特に怒りや文句を言わずに生きてきたことに気付いたのも、母の認知症状が進行してからです。
2度目の免許証紛失のときは、本当に母が怖がるくらいに、人生でここまで怒ったことがないくらい怒鳴りつけました。そうしてどうなる訳でもありません。ただ母に恐怖感を与えるだけで、行動や症状が改善する訳でも、物忘れの状態がよくなる訳でもないことはわかっています。でも、抑えられない感情が、それまで母との生活で感じてきたストレスが一気に噴出した瞬間でした。もし、すぐ隣に家があって、物音や声が聞こえていたら、高齢者虐待で通報されていたかもしれません。

もちろん、冷静になった後で、きちんとフォローはしましたが、その後、自分の判断で、自由に外出できる機会を失ったことの失意からか、母が「普通」に家事をしたり、テレビを見たりする時間が極端に減り、「頭がクラクラする」「頭がおかしくなってる」「きつい」といった言葉ばかりが出てくるようになり、寝たり、臥せったりする時間が多くなりました。

なるだけ、僕も自分の時間があるときは、母親を外出させるように買い物などに連れて行ったりはしたいのですが、そういう機会やデイサービスなど、与えられた機会で外出するのと、自分の意志で外出するのとは、また違うと思います。

正直、これから先、僕たち家族の生活がどうなるか、全く先が見えません。
認知症の症状が改善することは見込めないので、正直不安しかないです。
ただ、今回は僕が車のキーを保管したことにより、物理的に運転できなくしたことで、母は運転することを諦めましたが、「もう家から出られないから」と、抑鬱的で悲観的な発言が出てくるばかりです。
高齢者が「運転」という手段を失うことは、こういうことなのです。

【後記】
これを一通り書いた後で、母親の免許証が見つかりました。
しかし、今後のことを考えると、今の母親に運転をさせるのは危険と判断し、免許証も他のカード類や車のキーと一緒に金庫に保管し、預かることにしました。ただ、返納や車の処分は当分見送ります。
ちなみに、免許を返納した人に対する市の特典は以下の通り。

対象者の申請に基づき1回に限り、以下のいずれかを交付します。
市バス回数券 6,000円分(100円×60枚綴り)
タクシー乗車券 5,000円分(500円×10枚綴り)
路線バスIC乗車カード 5,000円分(IC乗車カード保証金500円含む)

市バスとか路線バスが、全く使い物にならない事情があるのは、上に書いた通り。これで返納を考える人がいるのでしょうか。

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