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子どもの遊びの視点と親の手助け徒然

「事の初めはボールのお池があってさ」

我が家にはいとこから譲り受けた大量のボールプール用のボールがある。
時折思いついたようにボールプールに這って行ってはポコポコとプールの外に投げ出すのを見る日々だったが、その日は違う気分だったらしい。
すぐ隣の棚と段ボール箱の隙間に一生懸命詰め込んでいたのだ。
千と千尋の神隠しのすすわたりが炉へ石炭を投げ込むのを見ているようだった。
どれ、一つ手伝って立派なボールの入り口を作ってやろうかと意気込んだ所でふと気づいた。
「この見た目だからこそ楽しいのでは?」
もとい。
「自分が見つけたこの光景に手を加えられたらそこはもう自分の思う遊び場では無いのでは?」

「子どもも親もどちらの心もお互いに知らないよね」

自分もぼんやりと覚えがある。
詳しい記憶ではないが、「なぜ自分はこうして楽しんで遊んでいるのに勝手に手を加えるのか」という不満だ。
鬱陶しさや邪魔くささを感じて少しムッとした覚えがある。
子どもは「自分」が見出した場所で「自分」が思いついた遊びをしているのだ。
そこに「親」が良かれと思って場所の改善をしたりしようものならそれはもう自分の発明ではなくなる。
だから余計なことをしてくれるなという気持ちになり、遊びを手放す。

一方、親のみになってみるとわかる。
子どもが楽しく遊んでいる姿はとても尊く、その楽しみが続くように何か手を施してやりたくて仕方がないのだ。
勝手に放っておいても遊ぶとは分かっていながらもさらなる高みの経験をしてもっと喜んでほしいと思ってしまうのだ。
実際、その施しによって子どもが喜ぶことも大いにある。

「子育て難しい〜!」

この視点をぼんやりと頭に置くことができたのは一つの儲け物、と思いながらまたボールをポコポコと投げては散らかしていく背中を見ている。
気づきを得たあの日から数日経つが、あの遊びはもうしていない。

……あの場面で何かしら手を貸したり色々飾りつけたり増築した方がもっと遊びが広がったんじゃないかなぁ〜〜〜!?

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