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閲微草堂筆記(257)酔鍾馗

巻十六 酔鍾馗
 宗人府丞(皇族にかかわる事務を掌る。府丞は漢文冊書の校正を行った。)の曹慕堂が、乩仙(占い師)の描いた『酔鍾馗図』という画を持っていた。

 そこで私はその画に二首の絶句を題した。

 一夢荒唐なる事有りや無しや 
 呉生の粉本 幾たびか臨摹す
 紛紛たる画手 新様多し
 又道ふ 先生是れ酒徒なりと

(一夜の夢のごとく短い時の中でとりとめもないことがあるのかないのか
 名画家である呉道子の草稿本を何度か模写した
 紛紛として乱れた筆致で 新たな様式の多いこと
 また言う 先生は酔っ払いであると)

 午日家家 蒲酒香る
 終南進士 亦た壺觴す
 太平たる時節 妖癘無し
 爾閒に遊びて醉郷に到るに任す

(端午の日、家々では菖蒲酒の香りが漂っている
 鍾馗もまた酒杯を傾けている
 時は太平であり流行り病もない(※)
 鍾馗よ、お前はその暇に遊び、自由気ままに酔郷に到るがいいだろう)

 描いた者も題した者も、いずれも筆を弄び戯れたにすぎなかった。

 ある日のこと、昼寝から目覚めると、窓の外で下女がひそひそと幽鬼の話していた。

「王おばさんの家は西山にあるのだけれど、そのおばさんが言うには、以前月夜の晩に瓜畑で見張り番をしていた時、遥か遠くに二つの灯りが見えて、それが林の外からゆっくりゆっくりこっちにやって来たんだって。がやがやと騒がしく人の声がして、見れば一人の大きな幽鬼が酔っぱらって倒れそうになってて、周りの小さい幽鬼たちがそれを支えながらよろよろと歩いて行ったらしいの。これって、酔鍾馗なんじゃないかしら。」

 天地は広大で、この世ではどんなことも起こりうる。
 人が好き勝手に一人の人物を描いて、その画の人物とそっくりな人と遭遇することは往々にしてあるのだ。また、ある人が好き勝手に名付けて、それと同じ名の人と遭遇することも往々にしてあるのだ。
 無意識のうちにそれらがぴたりと符合する、これは天の導きなのだ。

※ 鍾馗は元は終南山の進士で、疫病を祓う神として信仰されている。日本でも端午の日にその画や像を飾って疫病除けとする習わしが伝わっている。

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