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閲微草堂筆記(197)倉を守るもの

巻十一 倉を守るもの
 人字汪の脱穀場には柴が積まれている場所があり(これを俗に垛という。)、ずいぶんと長い年月を経ていた。土地の者はそこに霊怪が棲みついていると伝えていた。領域を犯せば、その多くは禍が降りかかったが、時に病の平癒を祈れば験があることもあった。そのため人々は茎の一本、葉の一枚であってもそこから取ろうとはしなかった。
 雍正の乙巳の年(雍正3年)のこと、その年は大飢饉がおこり、光祿公は粟六千石を無償で提供し、粥を煮て皆に施した。
 ところがある日、粥を煮るための柴が足りなくなってしまった。そこでここの柴を使おうとしたのだが、皆は躊躇して動こうとしない。公は自ら赴いて祈り、申し述べた。

「あなた様はすでに神であられる以上、必ずや道理をわきまえていらっしゃるはずです。今や、数千の人間が飢え苦しみで野垂れ死ぬのを待っている有様です。どうしてあなた様のような御方に惻隱の心(他人に対する憐れみの心)がないことがありましょうか。私はあなた様にここから移り、倉を守っていただきたいと考えております。そしてここの柴を頂戴し、飢餓の者たちの命を救いたいと思っております。どうか、拒むことなくお許しくださいますよう。」

 申し終えると公は皆を指揮して柴を引きずり取り出したが、わずかの変異も起こらなかった。柴を使い尽くしたあとで、一匹の尾の禿げた大きな蛇を見つけた。とぐろを巻いて臥したまま動かなかったので、大きな畚に乗せ、両端を二人で持って倉の中に担ぎ込むと、しばらくして見えなくなった。それからというもの、その垛では何の霊異も起こらなくなった。

 しかし、現在に至るまでの六、七十年の間、ひそかに粟を盗もうとする者が現れていないのは、倉を守るという約束のおかげであろう。どんなに凶悪な毒のある物の怪であっても、道理をないがしろにすることはできないのである。「妖は徳に勝たず」(※)というのはまさにこのことを言うのだ。

※『史記』「殷本紀」からの引用。


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