見出し画像

閲微草堂筆記(199)庸人自擾

巻七 庸人自擾
 雍正の甲寅(雍正12年)の年のこと、私は姚安公に随行して初めて京城に足を踏み入れた。そこで御史の某公がひどく疑り深い御仁であるということを聞いた。

 彼は初め、永光寺の邸宅を一軒抵当として手に入れたのだが、その宅地ががらんとしていて人気が無いために盗賊に狙われるのではないかと心配になった。そこで夜に家の奴隷を数人遣わせて交代で警備の番をさせたのだが、彼らが怠けるのを防ごうとして、どんなに厳しい寒さやうだるような暑さのなかでも、必ず手に灯りを持って自ら巡視した。

 ついにその労力に耐え切れず、別に西河沿いの邸宅を一軒抵当として手に入れた。その場所は店舗がところせましと立ち並んでおり、今度は火事がおこるのではないかと心配になった。部屋ごとに水甕を置き、夜になると巡視した。永光寺の時と同じようになり、その労力に耐え切れなくなった。

 そこでさらに虎坊橋の東の邸宅を一軒抵当として手に入れた。そこは私たちの家と数軒隔てただけの場所にあった。その建物の佇まいは奥深く物静かであり、今度はまた妖魅がいるのではないかと心配になった。そこで僧侶を招き、読経させ放燄口(施餓鬼。仏教の法会。)を執り行い、鼓と鈸(はち。寺院で用いるシンバルのような形状の楽器)をじゃんじゃんと鳴らすこと数日間にわたった。彼が言うことには、これは幽鬼を成仏させるために行ったとのことだった。さらに道士を招いて祭壇を設え、神将を召喚して呪符を貼り咒をとなえて、またまた鼓と鈸をじゃんじゃんと数日間鳴らして、言った。これは狐を追い払うためだと。

 その邸宅は、もともとは何もなかったのだが、それ以降、妖魅がさかんに現れるようになった。瓦が投げ込まれ、器物は盗まれ、夜な夜な平穏に過ごすことができなくなった。下男下女たちはそれにかこつけて悪さを働き、損失は数えきれないほどになってしまった。

 論者は皆、これぞ「妖は人より興る」ということだと言った。
 一年も住むことなく、さらに繩匠衚衕の邸宅を一軒抵当として手に入れた。引っ越した後は音信普通となってしまったので、彼が次にそこで何を設えたのかはわからない。

 姚安公は言った。
「『世の中はもとより太平無事だが、凡人だけが自ら騒ぎ立てる』(※)という言葉があるが、これはこの人のような人のことをいうのだなぁ。」

※ 『新唐書』「陸象先伝」より。原文は「天下本無事,庸人自擾之」。「庸人自擾」で故事成語となっており、意味は「自ら面倒をひきおこす」。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?