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閲微草堂筆記(273)狐の罠

巻二十三 狐の罠
 喀喇沁(カラチン)公の丹公(号は益亭といい、名は丹巴多爾濟、姓は烏梁汗氏、蒙古の王族の子孫である。)が言うことには、内廷の都領侍(官名)である蕭得祿は、幼いころに丹公の官邸で小間使いをしていた。

 その時彼はたまたま、何か黒い猫のようなものが樹の下に臥しているのを見た。戯れに弾丸を撃ってみると、それは素早く身を翻し、巨大な犬のようになった。さらに撃つと、また身を翻し、しまいには巨大な驢馬のようになった。蕭得祿が怯えてそれ以上撃たないでいると、その何かもまた自ら去って行った。

 すると、にわかに瓦が飛び交い、煉瓦が投げうたれ、怪異が起こるようになった。狐の仕業だと知れ、彼は心中恐々として安らぐことができなかった。ある者が画を描いてそれを祀るといいと彼に教え、それでようやく祟りは止んだ。

 ところがその後、唐突に蕭得祿の机の上に、数十銭が置かれていた。彼は狐からの賄(まいない)だと思い、始めはそれを懐に納めて誰にも言わずにいた。
 次の日、金額は百文に増えていた。それからというもの、額は日に日に増していき、ついには千文に至った。いくらもしないうちに、次は銀塊になった。その重さは約一両であった。
 またも日に日に額は増えていき、銀塊は五十両に達した。これだけの大金を隠しておくことはできず、ついに管領の者に発覚してしまった。
 公庫から盗み出したものではないかと疑いがかけられ、彼は笞打たれ訊問されたが、ほとんど自白することはできなかった。
 後になって、これは狐の仕掛けた罠であったとわかったのだった。


 そもそも「飛土逐肉(泥団子を投げて獣を狩る)」(「断竹続竹,飛土逐肉」とは、『呉越春秋』に記載されている陳音が唱えていた古歌であり、弾弓の始まりであるとされている。)は、子供の遊びとして常のものである。したがって主人は、蕭得祿が狐を弾で撃ったことを知っても深く責め立てることはなかった。狐はうっぷんを晴らせなかったのだろう。
 金を餌にして彼をおびきよせ、欲に目にくらまさせることで禍の網にふれさせ、そこでようやく狐の願いは叶ったのだ。
 この狐が陥穽を仕掛け、機を窺っていたことは、本来であれば容易に見抜けたことである。しかしそこに利欲があったために、その思考は曇らされてしまったのである。 

 私は礼を以て誠意を示せば狐の心は満足するものと思っていた。しかしながら物事を自分の都合のように捻じ曲げて解釈してしまうと、不覚にも狐の術中に嵌ることになるのだ。

 その昔、夫差は仕えていた勾践のことを貪り、最後には越に敗れた。楚の懐王は商於の地、六百里四方を貪り、最後には秦に敗れた。北宋は遼が得た土地を滅ぼそうと執着したために、最後には金に敗れた。南宋は金を討伐するための援兵に注力したために、最後には元に敗れた。
 軍国の大計で、将軍や宰相が共に謀っていてもなお、餌に釣られてしまうことは免れないのだ。ましてや区々とした幼い童子が、老獪な妖魅の陰謀から逃れられようか。必ずや敗れることになろう。


 また、最近の出来事を一つ挙げれば、刑曹の某官の下僕が、寝ている間に舌で顔を舐めまわされているように感じた。石を持って振りかぶりこれを打ちのめすと、何者かが倒れて死んだ。灯りで照らして見れば、それは一匹の黒狐であった。これを捌くと、腹の中に子どもの首が一つあった。目鼻立ちははっきりとしていたが、そもそもこれは狐が嬰児を錬成しようとしたもので、完全に人の形になる前のものであった。

 下僕は翌日、主人のために車を御して帰った。ところが突如その身体に狐が憑き、腰掛けを振り上げるとそれで主人を打ち据え、大声で自らの横死のさまを陳述した。
 そもそもこの狐は下僕に報復しようとしたが直接手をくだせなかったので、主人の手を借りて笞打たせることでその恨みを晴らそうとしたのだ。

 今回の二匹の狐はいずれも復讐を遂げているが、私はこの黒狐の方が勇猛かつ剛直であり、先の狐が陰湿で狡猾であるのに勝っていると思う。

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