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閲微草堂筆記(236)消えた死体

巻十八 消えた死体
 表兄(いとこ)の安伊が言うことには、河城で秋の収穫時に、子供を抱えた若い婦人が畦道を歩いていた。すると突然、婦人は足を踏み外して地に倒れ、そのまま起き上がらなかった。

 畑で収穫をしていた者は遠くからこれを見ていて、どうしたのかと不審に思い、駆けつけてみれば、すでにもう婦人は死んでいた。抱えていた子供も煉瓦の角に頭をぶつけ、脳が裂けて死んでいた。

 彼らは驚いてこのことを地主に伝え、地主はさらに里長に報告した。検死をしたが、数十里内にこの婦人は住んでおらず、その装いは華やかでありながらきれいに整っていた。その子供もまた銀の腕輪を着け、刺繍の入った紅色の衫を着ており、貧しい家の者ではないと思われた。人々はおおいに戸惑い、どういうことなのかまるで見当がつかなかった。

 ひとまず葦の筵(むしろ)で死体を覆うと、さらに見張り番を置き、急ぎお役人に知らせた。河城は県から近く、お役人は翌日の夕方には到着した。筵をめくって検めようとしたが、その中には藁が一束置かれているだけで、二つの屍体はすでに跡形も無くなっていた。筵を押さえつけていた瓦はもとより寸分も動いてはいなかった。見張り番もまた、一瞬たりともその場を離れてはいなかった。
 しかしお役人にはたいそう立腹し、地主と見張り番たちをすべて拘束し、連行した。あの手この手で取り調べたが、彼らが母子を謀殺し死体を遺棄したという証拠は微塵もなかった。紛糾し、堂々巡りになること一年あまり、疑案(難事件)として上官の預かりとなった。

 上官はその事件の概要があまりに茫洋としているため、何度も厳しく詰問した。さらにまた一年あまり経ち、疑案の調査を待っている間に、その地主の家は傾き、もはや何一つ残らない有様になってしまっていた。

 これは康熙の癸巳から甲午の年の間の出来事である。

 伝えるところによると、その村の南側には廃墓地があり、夜な夜な、黒狐が月を拝んでいたのを多くの人が目にしていたという。

 その地主の家の息子は狩りを好んでおり、ひそかに墓場に向かうと伏せて様子を伺い、弩(いしゆみ)を引き絞ると黒狐の股に命中させた。黒狐は鋭い声で長く吼えると、火光に姿を変え、西へと去って行った。
 その巣穴を探ると、二匹の子狐が見つかった。息子は子狐を捕縛して家に帰ったが、しばらくして狐たちは逃げ出した。
 その一月あまりのうちに、例の事件が起こったのだった。

 これは狐が変幻し、報復しに来たのではないだろうか。

 しかしそれはあまりに荒誕不経な話であり、何の証拠もないため、人々はあえて供述しようとせず、官もまたあえて調書に書き入れようとはしなかった。死体遺棄の事件として処理せざるを得ず、それゆえここまで事態が紛糾したのだった。


 安伊はさらに続けて語った。城の西側の某村に乞食の婦人がいた。姑に虐げられた末、土地神の祠で首をくくった。先ほどの話と同様に、その死体を筵で覆って検死を待ち、さらに見張り番を置いた。
 役人が到着すると、屍とその見張り番が共に見えなくなっていた。まるで河城の時と同じように厳しく取り調べが行われた。

 七、八年の後、犯人はようやく安平(深州の属県)で見つかった。そもそも、その屍の婦人はすこぶる色白で美しかった。一人の若者が輪番で見張りにあたっていた際、その下裳を脱がせ、屍を犯した。すると屍は、人の生気を得て再び生き返った。そこで若者と婦人は、手に手を取り合って逃げ出したのだった。
 これは康熙の末年の出来事である。

 ある人は、河城の一件はこれと同じ類の話だったのではないかと考えたが、結局のところは分からない。また、ある人は、この二つの話は同一の出来事であったのが、誤って伝聞されたのではないかと考えているという。

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