閲微草堂筆記(62)對瀛館

巻七 對瀛館
 裘文達公が言うことには、彼が詹事(皇后・太子の身の回りの世話)の官職を務めていた時のこと、当直の番があたっていたため、五鼓(五更。午前3~5時頃)に円明園に赴いた。その途中、路傍の高い柳の樹の下を灯火がぐるりと囲っており、何やら事情がありそうな様子であった。行ってみると、護衛の兵士が一人、樹の上で首を吊っており、皆で彼を救護していた。しばらくして、護衛は息を吹き返した。自ら言うことには、

「この付近を通り過ぎてから、しばしの間休息していると、道端の小屋に灯りが灯っているのが見えた。一人の娘が円窓に座して私を招いている。窓を越えて中に入り、俯いた途端、すでに首がぶら下がっていた。」と。

 これは、首吊り霊が姿形を変えて身替りを求めたのである。このようなことは至るところであるものだが、この幽鬼は家屋の幻をつくりだし、縄まで準備していた。他とは一線を画した特異なものである。

 また、先農壇の西北、文昌閣(文昌閣は俗に高廟と呼ばれていた)の南は、溜水が集まって池になっており、しばしば溺死霊が人を引き込んでいた。私が十三、四歳の頃、何の理由もないのに水に入っていく者を見たことがある。すでに半身が沈んでおり、周囲の人々が大騒ぎしながら引っぱりあげ、無理やり陸に戻らせた。ぼんやりとした様子でしばらく座っていたが、だんだんと正気を取り戻したようだった。人々が

「一体どんな苦しいことがあって、入水しようとしたのか。」

と問えば、彼は

「実際のところ苦に思っていることは何もない。ただ、ひどく喉が渇いていて、見れば一軒の茶屋があったので走って行って水を飲ませてもらうとしたのだ。茶屋の門には扁額が掛けてあって、白く塗った板に青色の字で『對瀛館』と書いてあったのを覚えている。」

と答えた。その命名はすこぶる含みのあるもの(※)であるが、一体誰が題し、誰が書いたものであるのか。この幽鬼はさらにもまして奇妙なものである。

※「對瀛館」の「瀛」は大海という意味であり、「對瀛」で海に面するという意味になる。

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