橋場悦子歌集『静電気』を読む 貝澤駿一

歌集を買いに行くときは、総合誌やツイッターの情報をもとにある程度の目星をつけておくようにしている。その日の予算のこともあるので、あまり予定になかったものを買うことはしない。だいたい二か月に一回、一度に三~四冊購入し、注目歌集が溜まってきたらまた二か月後に三~四冊購入する。それをここ四年ほど繰り返している。

ところが時々、事前の情報なしに書店でいきなり出会い、欲しくなって購入してしまう歌集がある。橋場悦子『静電気』は、まさにそのようにして出会った歌集である。惹かれた理由は、作者の師でもある外塚喬氏の帯文(序文)が素晴らしかったからだ。

「意識して内容を詩的にするとか、表現をする上で奇を衒うことはしない。自然体で詠んでいる作品が詩的と見られるのは、天性と言ってもよいのかもしれない」(外塚喬「序」より)

ここ最近の口語中心の歌集とは一線を画すようだと、この時点で期待が高まった。自然体で詠んでいる作品が詩的と見られる、それは近刊の若手歌集の中では少し欠けている目線ではなかったか。予算はオーバーだったが迷わず購入し、さっそく、読み進めることにする。

この街の匂ひがあると気づきたり二時間かけて帰りきたれば
一面の眩しき雲を切り裂いてビルの輪郭正しき五月
問ふ方も答へる方もいらだちて窓の外には西日がきしむ
初夏の光は車内にみちみちてまだしりとりに飽きない子ども

歌集の序盤。まずはこうした歌に目が行く。詠まれている内容としては平凡で、修辞もそれほど目立つわけではないけれど、無理のない韻律感に支えられて、ことばが力強く立ってくるところがすごくいい。一首目、「二時間」という具体的な時間の提示によって、「この街」の「匂ひ」に同化していくような身体感覚が表現されている。二首目は雲やビル、そしてそこにいる自分があるべき場所におさまっている「正しさ」を歌い、静謐な叙情が感じられる。三首目と四首目は光のモチーフの出し方が印象的だ。「西日」のやわらかさはかみ合わない二人の「いらだち」を少しなだめるように、一方「初夏の光」のまぶしさは永遠に続く子どものしりとりの果てしなさと呼応するように、それぞれ歌の中で完璧な背景となっている。外塚の言うように、ひとつのアイテムやシチュエーションの「詩っぽさ」に頼るのではなく、全体として自然な形で詩が成り立っている。

鉄塔が手と手をつなぐごとたわむ電線のした何度もくぐる
呼べばすぐエレベーターはやつてくる氷室のような静けさ持ちて

「ビルの輪郭」もそうだったけれど、これらの歌の「鉄塔」や「エレベーター」など、機械的で無機質なものにも自然に詩が与えられていて、それが本歌集の特徴のひとつになっている。そのまま描けばあまりにも冷静な目線で、ものの奥まで見透かされてしまいそうな気持ちになるところを、「手と手をつなぐ」や「呼べばすぐ」のように少しスキを与えるような歌いぶりで、この作者独特のやわらかいまなざしが生まれるのだと思う。

真顔より気持ち目元を緩ませて接見室の扉を開けぬ
ダルメシアンは器物扱ひなることが開廷前の雑談となる
翌朝になりて気がつく黙秘権告げる場面のつひになきこと
刑事より被疑者の署名の字のうまき供述調書もまれにはありき

Ⅱ部になると、前半で目立っていた都市の嘱目詠に加えて、掲出のような専門的な職業の場面を詠んだ作品がぽつぽつと現れ、ぐっと歌集のふくらみが増す印象だ。「接見室」「器物扱い」「黙秘権」「供述調書」といった用語が歌の中でどっしりと重く、しかし重くなりすぎないような形で処理されている。やはりどこまでも「自然」な作者である。一方で、ビルや都市の風景を描いていたⅠ部のあのやわらかな目線が、ひとたび「法」という抽象的な事柄に向けられたとき、自然体であることの背後に見え隠れしていたあの冷静さが、ものの奥を見透かすような鋭い目線へと変化していることも見逃せない。

ラーメンもカレーも水の分量をきつちり測り料理する君
差し引きで言へば得して生きてきて傘や帽子はときどき失くす

これらの歌では「きつちり」や「ときどき」といった程度を表す副詞が不用意に使われているようにも見えるけれど、かといってこれに替わる情報を入れてもノイズになってしまいそうで難しい。「きつちり」なら「きつちり」と、「ときどき」なら「ときどき」と言い切ってしまうこともまた、作者の自然な言語感覚の一つなのだろう。橋場さんの短歌は定型がほとんど崩れない。むしろことばが定型を選んではまってきているような気さえする。読みは平坦になるかもしれないが、起伏の少ない穏やかな作品ともいえる。

跳びたくてイルカは跳んだと思つてた遠い夏の日の水族館

おそらく歌集を代表する一首である。特に説明を要する歌ではないのだが、しいて言えば「水族館の遠い夏の日」としなかったところがポイントだと思う。「水族館の遠い夏の日」だと、水族館の持つ鮮烈なイメージがわずかに「遠い夏の日」に勝ってしまい、微妙にバランスが崩れるのだ。ことばそのものが持っている本来の詩の力を生かすためには、「遠い夏の日の水族館」とする必要があった。ここに至って回想は誰もが経験する夏の原風景としての詩を得るのである。

2020/08/01 gekoの会 貝澤駿一

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