ぼくの川越と、あなたの祖父江と~キクハラシヨウゴ『題詠ホークス』を読む 貝澤駿一

感染対策を徹底して行われた今年の文フリ東京、そこで手に入れたキクハラシヨウゴ『題詠ホークス』がとても面白かった。著者は東京で一緒に歌会もする友人なのだが、同世代でともに野球ファンということもあり、何かと話が合うのである。『題詠ホークス』は(タイトルは言ってしまえばダジャレなのだけど)、古今東西の野球ネタと題詠を組み合わせて連作とした画期的な短歌集だ。野球を知らない人でも知っている名前から、相当ファンでないと知らないようなコアな名前まで、とにかく選手名が万華鏡のように乱舞する。

海外でチェーンに入るかのような安心感が川越にある

これなんかは初読で爆笑してしまった。川越英隆といえば、長らくオリックスを支えた先発投手の一人であるが、シーズンをまたいで15連敗という不名誉な記録を持っていたり、お世辞にも強いとはいえなかった90年代末~00年代初頭のオリックスで奮闘した投手という印象が強い。この時代を野球少年として過ごした僕には、川越が出てくると安心するという気持ちがよくわかる。環境が変わっても、成長してものの見方や考え方が変わっても、変わらないものがあるんだという、そのどこかほっとするような気持ちだ。

中継ぎを一人も言えぬ貴方から貰うカードの選手は祖父江

相聞の歌もある。価値観がかみ合わない男女の、微妙なずれを面白く描いている。祖父江大輔は、2014年の入団以来一貫して中日ブルペン陣を支えている。現在のセリーグを代表する中継ぎ投手だと僕は思う。僕だったらこの後どれだけ祖父江がすごい選手なのかを彼女に語ってしまうだろう。そうして「中継ぎを一人も言えぬ」彼女はひとり、中継ぎの名前を覚えるのである。二人だけのささやかな世界が更新されていく、その甘やかさが伝わってくる。

過去の選手と現在の選手の双方を、『題詠ホークス』はうまくちりばめたなという印象がある。時がたてば現在の選手は過去の選手となり、過去の選手はもっと過去の選手になっていく。そうした時間軸の中で、作者は「あのとき君は何していた?」ということを、読者に問いかけているような気がするのだ。野球選手というのはいつの時代も、同じ時代を過ごしてきた人たちをつなぐ架け橋のような存在なのである。

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固有名詞(というよりも、作者の個人的な部分に強く関係する名詞)が歌に登場することで、読みのハードルが上がると考える読者は少なくない。きちんと理解するためにはその固有名詞の背景やそれに込められた思いを知らなければいけない、と思うからであろう。固有名詞の持つ具体的な文脈が、歌に意味を与えている。それはとても誠実で好感の持てる読み方だ。だが、それを理由にその歌を拒絶してしまう(私にはわからないと思ってしまう)のは、なんだかすごくもったいない。

むしろ、作者と読者が共有するある「共通する感覚」を、固有名詞が呼び覚ますとき、それはその人にとって「いい短歌」になるのだろうと思う。

音楽室ひとりで歌う順番が回って小柴君の裏声(竹中優子「輪をつくる」)

そうそう、この歌の「小柴君」みたいな子、クラスに一人くらいは必ずいたよね、という「感覚の共有」である。おそらくシャイで変声期真っただ中の「小柴君」が、音楽の時間に突然スポットライトを浴びることになる。その小さな事件、それによって生まれた自分の小さな心のゆれが、ほかならぬ「小柴君」の存在によって刺激されている。この歌を読むとき、読者の中にはおそらく自分なりの「小柴君」がいて、恥ずかしそうにでも得意げに歌を歌っている。それがとてもまぶしく感じるのである。

まだ膝の痛いナオキが踏ん張って打ったシュートに夕陽ひとすじ(千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』)

「まだ膝の痛いナオキ」は、作者の現実の中の登場人物に過ぎない。だから読者は本当の意味で「ナオキ」という人物のことを知ることはできない。ひたむきな「ナオキ」の歩んできた道のりを想像し、それを温かく見守っている作者の心情も想像し、その想像が自分のこれまでの経験のどこかにある何かと共鳴したときに、この歌は「いい歌」として読まれることになる。きわめて個人的な読みを誘発するのである。

『題詠ホークス』の川越や祖父江は、具体的な文脈を持つ固有名詞というよりはむしろ、これらの歌の「小柴君」や「ナオキ」に近い役割を果たしているように思う。もちろんそんな風に思えるのは、読者である僕が作者とある程度同じ世界を共有できているからに他ならない。現代短歌において、世界の共有の仕方は様々だ。言葉でガチガチに固められた美しい世界を持つ歌人もいれば、きわめてパーソナルな部分を前面に出すことによって読者に共感の輪を広げていくタイプの歌人もいる。

そういう意味では、『題詠ホークス』の世界は作者の内面に閉じられている(作者の趣味的世界によってのみ構成されている)というわけではなく、もっと外部へ拓かれた世界のような気がするのだ。川越や祖父江は具体的な文脈に縛られた野球選手ではなく、「ぼくの川越」や、「あなたの祖父江」が、読者の中にすべからく存在する。そうして逆説的に本来の川越や祖父江にも、新しい光が当たるように作られている。ちょっと感動すら覚える。

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『題詠ホークス』で、僕が一番好きだったのはこの作品だ。

神様はここにいました原口に野球をやれと言っていました

名作だと思う。原口に野球をやれと言ってくれた神様は、僕のこともちゃんと見守っていてくれるだろう。そんな安心感が呼び起こされる。

2020.12.5  gekoの会  貝澤駿一


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