歌の円寂するときはいつ? 丸地卓也

 「かりん」(二〇二〇・十一)の時評で口語短歌に円寂がくるという結びをした。モノローグの歌も、ダイアローグの歌も評価が定まるまでまだ時間が経っていないが、昨今発表された作品を読みながら、円寂の気配を探りたい。

男からチューブの伸びている鞄どかしてくれた席に座った 阿波野巧也『ビギナーズラック』
乞われても起きない こいついつ敬語やめたんだろう 起きたくないなぁ 遠野真「短歌研究」二〇二〇・九

 解説で斉藤斎藤が自撮りから類推して、「「ぼく」の「気持ち」」は作中主体の視点におけばいいのか、もしくは視界に置くべきなのかという逡巡があることを指摘している。歌に出てくる男は呼吸器疾患などで在宅酸素療法を受けている患者だと思われる。あえてチューブを特定せず、座ることの意味も書かないところに逡巡はみとめられつつも、外界に閉じられた歌になっている。遠野作品は歌全体が独り言になっている。後輩か部下に「起きろー」といわれているのだろう。この歌もあえてディテールを描かず、敬語をやめた相手に応じたくないという独語型の歌である。

なぜみんな家族になりたがるんだろ柿の若葉の露に触れつつ 高橋千恵『ホタルがいるよ』
そら豆を器用に剝いて父の目はうなだれている藤川を追う 貝澤駿一「短歌」二〇二〇・九
歯痛には快楽があるとドストエフスキーが書いてましたぜ、へ、へ! 工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』

 高橋の歌はつぶやきではあるが、少し前に誰かと結婚の話をしたことが読みとれ、自分なりの回答にもなってもいる。農家の庭先に多く植えられている柿の木に植物相的な生殖性を感じ、家庭を築くことと自分の距離を推し量っている。貝澤は父に自分が似てきたことを、おつまみのそら豆を剝くことと、プロ野球選手の藤川球児をみる父の目線という、家庭の一場面から詠っている。どちらも他者の存在から自分の抒情を深めており、ダイアローグの歌といえよう。工藤の歌は帯で加藤治郎が「人間性が色濃く表れた作品です。」というように、どの歌も読者に語り掛けてくるデカダンな〈われ〉がいる。
 モノローグの歌は斉藤のいう「近代短歌的自我」への懐疑がみられる。一方、ダイアローグの歌は「近代短歌的自我」の接収や発展的継承の意識がみられる。二つの立場はどこかで交わるのか、このまま平行線なのか。そこまで考察するには紙幅が足りない。

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