八木博信歌集『ザビエル忌』を読む 貝澤駿一

あとがきで作者は『子供とは無慈悲な宇宙人だ。ヘヴィメタルの帝王、オジー・オズボーンが「世の中で一番大変な仕事は”親業”だ」と言うのも当然で、人は子供時代だれも違わず荒振神であったろう』と述べている。まったくもって同感…とは言いがたいものの、「教育」という営みの本質を突いた発言だと思う。

連立不等式に「解なし」わかち合うことのできないもののごとくに

「親」と「子ども」は、互いを「すべてを分かり合える、もっとも身近な存在」として認識し、信頼関係を築いていく(もちろん、「一般的には」という注釈がつく。2020年現在、この社会にはもっと多様であらゆる親子関係が存在する)。ところが「教師」は、「他人の子ども」を、「まったく分かり合えない他者」として自覚するところから教育を始める必要がある。それは「教育」が子どもに与える無自覚の権力を慎重に避けるための、教師側の方略である。それと同時に、「まったく分かり合えない他者」だからこそ、「分かり合うためにあらゆる努力を惜しまない」という、教育的姿勢の根幹を表すものでもある。

八木博信『ザビエル忌』には、「分かり合えない他者」である少年少女が頻繁に登場する。彼らは奔放で、無垢で、大人には理解できない独特の倫理観を持ち、程度の差こそあれ、みな重たい闇を背負って生きている。

親友がたちまち敵になる少女たちの脂が溶け合うプール
少年は何も信じぬ骨肉が相打つ極真空手のほかは
施錠した体育倉庫で創るのか君らも君らだけの神話を
憎み合う父母を見て大人びるもうエルマーは冒険をしない

一首目、少女たちの「脂が溶け合うプール」には、学校生活特有の濃密な人間関係が投影されている。同年齢による極めて同質的な空間には「親友がたちまち敵になる」矛盾が孕まれているのだ。目には見えないその「矛盾」が、生々しい実景となって現れる。


二首目、「骨肉が相打つ」という表現が印象的だ。少年の引き締まった身体に、どこか寂しい陰影が見え隠れする。矛盾だらけのこの世の中で、少年が信じられるものは「極真空手」、つまり自分の鍛え上げたその身体だけだという。孤独で、ストイックなその生き方は、少年が自ら選んだものではない。信頼できぬ大人や友人を持たなかったが故の、少年なりの自衛策なのである。


三首目、「施錠した体育倉庫」の中には、アダムとイブが暮らす楽園のような理想郷が広がっている。大人の介入することができない、少年たちの無垢の世界である。そこで築き上げられる「神話」には、無垢であるが故の危うさが大いに秘められている。その「神話」がいじめや暴力によるものだったとしても、「無垢」の一言で正当化されはしないだろうか。


四首目、殺伐とした子どもの心には、もっとも身近な大人である両親の不和が関係していることも多い。大人の憎しみは、それを間近にする子供に「自分も人を憎んでもいいのだ」ということを教えてしまう。かつて竜の子供を助けたエルマーの優しさと勇気は忘れ去られ、憎しみの世界へと足を踏み出すことが「大人になる」ということだと、本当に言えるのだろうか。

「無垢」や「原罪」といったキーワードが、これらの少年少女を描いた歌の中から容易に浮かび上がってくる。「無垢」という「罪」を背負った子どもたちというテーマは、古くはウィリアム・ブレイクやチャールズ・ディケンズ、マーク・トゥエインにウィリアム・ゴールディングといった作家たち――最近では湊かなえの『告白』もこの中に入るだろうか――によって、くりかえしくりかえし語られてきた。文学の伝統と言ってもいい。

そして、こうした「無垢」の「罪」を背負う子どもたちを安全に保護し、矯正するための社会的装置として、近代国家は「学校」を開発し、そこで「教育」という営みの大部分が行われるようになった。もちろん、「大部分が」と改めて書いたのは、当たり前であるが学校教育だけが「教育」ではないからだ。あとがきで作者も「ある時期、学習塾の講師や家庭教師を生業としていた」と書いてある通り、教育にはさまざまな形があり、決して学校教育のみを神格化するものではない。新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされた2020年現在、「学校教育」にとどまらない新たな形の教育が模索されるべきだとは思うが、それはまた別の話である。

しかし、社会システムが複雑化したこの現代という時代において、子供の「無垢」という罪は矯正されるどころか、ますます「増大」するもののようにも気がするのだ。筆者自身が教職について実感したことでもあるが、あるときから子どもは教師を目指していた学生時代に想像したような純真無垢な存在ではなく、むしろ「無垢」を自らに与えられた権利として行使する、ずる賢さをもった存在なのではないかと思うようにもなった。

少女らの猥談みちる理科室にねむる琥珀の女王蜂が
さかのぼればすべては一つになる物理理論を説けば私語止みにけり
世界史のテストいま数知れぬ手が解答欄に書く「免罪符」
恋文の鉛筆の字のうすければ少女よ深く傷ついてみよ

歌集冒頭の一連「琥珀」から四首を引く。第四十五回短歌研究新人賞受賞作(2002)である。今からおよそ二十年前のある高校の日常の風景と読む。バブル崩壊以降の社会の矛盾が、「キレる十代」として若者たちに現象し、矛先を向けられていた時代と重なっている。凶悪事件も数多くあった。いじめや学級崩壊、家庭内暴力、ひきこもりといった言葉がワイドショーをにぎわせていた。学力低下論争もあった。大人が子どもをどう扱っていいかわからず、途方に暮れていた時代だろう。作者は冷静にその姿を捕えている。「猥談」に興じる少女たち、「私語」がうごめく教室、「免罪符」を振りかざす生徒たち、「恋文」に悶々とする乙女……ひとつひとつはなんてことのない日常だ。だが、ここには言いようのない「無垢」の世界が渦巻いている。大人が思わずたじろいでしまうほどの、強烈な無垢の権利を、子どもたちはちらつかせている。

矛盾した社会の教育には、当然のように矛盾が蓄積する。むしろ教育は矛盾の再生産装置だと、批判するのは容易いことだ。だが、それでも僕らは「教育」という営みを諦めたくはない。

絵葉書のような写真は色あたらし挫折を知らぬ少年が撮る
山彦を待てども君は変声期悪魔のごとき汚れた声の
場面緘黙の少女が言わんとしやがて散りゆく言葉 言の葉
おしゃべりな少女と帰る家路ながく道を説かれていることもある

挫折を知らぬ少年に、変声期の少年に、場面緘黙の少女に、おしゃべりな少女に……作者は近づきもせず遠ざかりもせず、程よい距離感で適切な愛情を注いでいる。挫折を知らぬ少年には、これから挫折が待っていることを、変声期の少年には、いままでよく通っていた声が届かなくなり、自分の意見や思いが黙殺されることもきっとあることを、「悪魔のごとき汚れた声」の中で生きていかなければならないことを、静かに伝えようとしている。場面緘黙の少女が何かを語ろうとしている。その声は届かないけれど、その心をくみ取ってあげることはできる。おしゃべりな少女に道を説かれている。「先生そんなんだから結婚できないんだよー」などと、生意気なことを言われているのかもしれない。教えるものが教えられ、教えられるものが教える。教育とはこのように「教え、教わる」関係が容易に逆転することで、輪のように広がっていくものである。月並みに言えば、「子どもから教えてもらうこともある」のだ。

子どもは「まったく分かり合えない他者」だからこそ、「分かり合うためにあらゆる努力を惜しまない」……教育的姿勢とはこのようなものだと冒頭に書いた。作者は歌を詠むことで、その姿勢を貫いたのかもしれない。これまで引いた作品は、すべて歌集前半・第一部に収められている。二部以降ではこうした少年少女たちとの緊張感のある日常は少し影を潜め、青年後期を生きる作者自身の成長も相まって、これまでよりも落ち着いた世界が展開される。中盤にあたる第二部から好きな歌を二首だけ引用して、この稿を閉じたいと思う。

ニュータウンへ帰る青年スクラムに傷つきし肩そばだてながら
レスラーの首太ければ東雲(しののめ)にやさしき恋の夢みるだろう

かつて少年少女へ向けられていた「教育的姿勢」が、今度は夢を追う青年たちに向けられているように思う。無垢の罪を脱した青年たちには、開けた世界が待っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?