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世界からタコが消えたなら

人情その1

「マラソン大会あるあるを言う人」あるある、今から言いたい。マラソン大会で、「一緒に走ろう」と言った人って、途中で抜け駆けして先に行きがち、って言いがち。

「マラソン大会あるあるを言う人」ないないも、今から言いたい。マラソン大会で、「一緒に走ろう」と提案はするものの、ついつい途中で抜け駆けして先に行っちゃう、って言う。

何が言いたいのでしょうか。少しは自分で考えてみてください。何が言いたいのかというと、「この世の中には、マラソン大会で置いていかれた人しかいないんじゃないか」ということです。実際に、一緒に走る提案をして先に行ってしまった人の話を聞いたことがありません。なくないですか?ある?ある人は次項「習慣」へ進みましょう。

ここからは、一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けした人を「一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けした人」、置いていかれた人を「置いていかれた人」とします。何事も効率を期待してはいけないのです。

それでは、一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けした人は、どこにいってしまったのでしょう。答えはただ一つ。ゴールした瞬間に死んでしまっています。だって見たことないから。真実はいつもひとつなのです。

なにはともあれ、一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けした人は、一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けしたことを、すっかり忘れてしまっているのでしょう。置いていかれた人だけが、そのことを鮮明に覚えているのです。

3人で狭い道を歩いているとき、私はいつも1人後ろになってしまうの、という話をよく聞きます。私もそうなりがちですが、前の2人になった記憶は、残酷ですが、あまり残っていないものです。ですが、恐らく、後ろの1人になった回数と同じくらい、もしくはそれ以上、前の2人になった経験はあるのです。

まとめです。私たちはみな「置いていかれた人」でありながら、「一緒に走ろうと提案したのにも関わらず抜け駆けした人」なのです。前者の記憶の方がより強く残っているだけで、私たちは必ず誰かを置き去りにした過去があると思うのです。

思いやりや人情というものは、そういった誰にもいえないような汚いこと、恥ずかしいこと、人を傷つけてしまったことをしっかり受け入れ、正当化せず、猛省し、自分もダメな人間の1人かもしれない、と思えて初めて発現するものだと思います。このまま、置き去りにされた自分を、そして自分が置き去りにした友達を、そのまま放置するわけにはいきません。

人情その1、くせ〜。

習慣

3年前の秋、どうしても死にたい夜がありました。頼りないビニールテープを何重にも重ね、何度も引っ張って強度を確認。外ではまだカエルが鳴いていた、ような気がします。秋なのに、蒸し暑すぎる夜でした。

震えの止まらない指で「いのちの電話」を検索、電話をかけるか1時間迷った挙句、かけてみました。かなり長いプルルルが、人の声に変わることはありませんでした。けっ、本当に死んだら責任とれんのけ、と思いながら、とりあえず歯を磨いて、寝床につく。結局眠れなかった夜の後には、あまりにも眩しすぎる太陽が涙をすっかり乾かしました。外のカエルは鳴きやんでいたと思います。

何故、全部終わりにしたかったはずなのに、歯なんて磨いたのだろう、と思うのです。

伊坂幸太郎のベストセラー小説「ゴールデンスランバー」には、"人間の1番の武器は、習慣と信頼だ。"という印象的な言葉が出てきます。信頼は大切なのは分かっていますが、習慣?習慣て。手洗いうがいとかのことけ!…ぶ(笑)しかしこの物語にはその「習慣」が、生き抜く上での必要不可欠な武器として機能する場面が多々ありまして、ラストシーンでもその「習慣」がかなり痺れる伏線として描かれていました。

習慣。つえ〜。

目的

目的意識って、大切くね?という話。どんな小さなことにも目的をもって臨むか臨まないかでは、過程のみならずゴールの質も大きく変わると信じております。

このとき、目的や目標の内容はどうでもよく、とりあえず決めることが重要ですのです。そうすると、それに関係の無い問題は、いい意味で、どうでもよくなってきます。無論、目標の達成のために無視できない問題であれば話は別ですが、それもあくまでも目標達成のために解決しようとしなければなりません。

「目的ばかりに縛られたくない」「生産性のないことや意味のないことをやろう」「人生楽しんだもん勝ち」という考えもあります。しかし、ある程度日常的に目的を持っていろんな物事に取り組んでいくからこそ、「生産性のないこと」「意味のないこと」をあえてする時間が、とてつもなく楽しく感じることができます。

目的、大切にして〜。

不幸

不幸自慢について考えてみよう、の段。マウントをとりたい、偉くありたい、支配したい、舐められたくない、こいつよりは強くありたい、負けたくない。万人にその思いはきっと潜在していて、でも、その基準とアプローチの仕方は時代や環境によって大きく変わる。

私の歴史偏差値は堂々の4であるから、詳しくは分からないものの、権力がすべてだった時代が、あったと思う。戦時中は忠誠心と力がすべてだったかもしれない。もっと最近になれば、生きていくために、学歴そして知識がすべてだった時代も、あったと思う。

さて、現代は。ある程度人権が広い範囲でカバーされ、形だけの伝統のようないわゆる「空気」といったものが嫌われ、差別、ハラスメント、人を傷つけうる環境や言動が排斥されていく、現代。

そんな現代は、差が出ない。いい意味でも悪い意味でも。これまでコンプレックスを抱えていた点に関しては、時代が無理やり人は皆平等としてくれたおかげで、だいぶ改善された。しかし、人よりも長けていると自負していた部分も、同じように時代が無理やり人は皆平等としたせいで、そこまで目立てなくなった。ここでは、権利や力、学歴や知識というものは、色褪せてしまう。特に権利なんかは、ハラスメントの発生源として扱われることが多いから、慎重に扱わなければいけなくなった。

権利や力が「強さ」の象徴ではなくなった現代。私は現代は皮肉にも「弱さ」こそ「強さ」の時代、と思う。別にそんな時代のヨシアシを述べているわけではなく、ただそう思うのである。

「私はつらい」「差別されている」「恵まれない環境である」「誰にも理解されない生きづらさがある」「3年前の秋、どうしても死にたい夜がありました。頼りないビニールテープを…」といった文言はSNSで力を持つ。前述したように、人類皆平等の風潮は、全員の権利や力といった目に見えるものを徐々にフラットにした。その結果、力を持ったのは「目に見えないもの」もっといえば「誰にも理解されないもの」である。「誰にも理解されないんですけど」の枕詞を使うことでいわば「無敵」になれる。

そして、なぜか「平等」というと、いわゆるその分野で地位の低い人ばかりにスポットが当てられる。だから、現代の風潮の中で、「皆さんにはわからないでしょうが、私はとてもつらいのです」という発信をすれば、周りが同情し始め、いわゆる加害者や環境、社会を罵倒するムーブメントが起こり、無敵になる。男尊女卑がいつの間にか女尊男卑になっていたりする。

次はどんなフェーズが待っているのでしょう。先程も言いましたが、別に不幸自慢が横行する現代の風潮が良いだの悪いだの言いたいわけではなく、なるべくしてなっているようなこの時代の風潮、そしてそれに伴う人々の言動の変化に一種の面白さを覚えているのです。しかしながら、私は不幸自慢はなんとなく、したくはありません。あまり理由はありません。理由はないけど、やめといた方がよさそうなことって、たくさんあるでしょう。

このような話をすると、論点をすり替えられて陰でバコバコにディスられることがあります。あ〜、つら。皆さんにはわからないでしょうが、私はとても、つらいのです。

不幸、つれ〜。

春眠

春はあまりにも嫌いすぎる。なぜなら、"動"の季節だから。この季節になると、人は、動く動く。切り替える切り替える。先輩との別れに涙したと思えば、2秒後にはニコニコで新入生に先輩風を吹かせる準備の体制に入る。

春はあまりにも嫌いすぎる。物思いに耽った秋、見えないものに悶々としていた冬。そのときのあなたはどこにいったのか。人の心の痛みを推し測ろうとする柔軟な心はどこにいったのか。"動"の季節。人は動けば動くほど、嫌なことを、悶々としたことを、忘れることができる。もしくは、忘れてしまう。でも、それでも、優しくありたい。

春眠、して〜。

人情その2

ディズニーのパレード曲集(ディズニーのパレード曲集?)を聴いていたのですが、「楽しんでるか〜い?」という言葉がめちゃめちゃに出てきます。私はその度に、楽しんでいたら「はあい」、たのしめていなかったら「あ?うっせ」と返すようにしています。これが本当よりの嘘です。

飲み会での「楽しんでる?」という言葉が好きになれません。先輩は何の気なしに発言したつもりでも、後輩の心の中は(え…楽しんでるけど?まさか楽しんでないように思われた…?もうしわけね〜。…待って。なんで?)や(あ?うっせ。楽しんでるわけないです。)となりながらも、「はあい!楽しいです!」つって。あ〜あ。人間関係って本当に素敵だと思うのです。これが嘘よりの本当です。

でも、この前の飲み会で、全く酔っていないのにも関わらず、後輩に対して「楽しんでる?」と聞いた自分がいてかなりハッとしました。やはり習慣というものは本当に恐ろしいのです。「自分がやられて嫌のことは、人にはしない」。心のノートにデカデカと書かれていたようなことが、全く実践できていないのです。

でもここで、「皆さんにはわからないでしょうが、私はとても、つらいのです。」とは言ってはいけません。恐らく人を傷つけてしまったからです。私の気持ちが分かられようが分かられまいが、私は立派な加害者なのです。反省し、再犯防止に努める他ないのです。

「はらげは飲んでないから1000でいいよ」と言ってくれる飲み会で、泣いてしまった経験があります。これが人情かと思い、私も実践しようと思ったのですが、そこまでのお金はありません。無いものを嘆いてもしょうがありませんから、あるものを守っていこうと思います。

人情その2、むじ〜。

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