朝賀

朝賀昭 エリート官僚を操縦した男

「責任は全てワシが背負う」

 いま「田中角栄ブーム」が押し寄せています。その理由はいろいろあると思いますが、国民が強いリーダーシップを求めている、そして情のある思いやりの政治を期待しているからでしょう。きっかけの一つに、石原慎太郎さんの『天才』がヒットしたことがあるでしょう。

 また、『東京新聞』(2月21日付)の書評欄は、中澤雄大さんの『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭』がなければ、『天才』は書かれえなかったと評しています。石原さんが一人称でオヤジさんを描いた手法は、確かに中澤さんが聞き書きを一人称で描いた手法に通じます。

 私が初めて「田中角栄」という政治家と出会ったのは、今から55年前の昭和36年。当時高校3年生だった私は、夏休みに仲間と共に衆議院のアルバイトに応募したところ、自民党に振り分けられ、政調会長室に配属されたのです。そこで政調会長に就任したばかりのオヤジさんと出会ったのです。

 当時、高校卒業後は子供の頃からの夢だった板前になろうと考えていました。ところが、オヤジさんは「なんで大学に行かない? 若い者が勉強をおろそかに考えているとは何事だ。そんなやつは出入り禁止だ」と凄い剣幕で怒ったのです。高等小学校卒業後、すぐに上京し、仕事をしながら中央工学校で学び、一流大学卒の「エスタブリッシュメント」たちを相手に、苦労しながら登り詰めてきたオヤジの気持ちが、伝わってきました。

 数日後、「大学に行くことにしました。卒業したら先生の秘書として雇ってもらえますか?」

 オヤジさんはにっこり頷いてくれました。大学に進んだ後も、私は授業の合間を縫って、オヤジさんの事務所で、今でいうインターンのような仕事をしていました。昭和37年7月、第二次池田内閣の改造で大蔵大臣に就任。着任演説で、次のように、大蔵官僚たちに語りかけたのです。

 「私が田中角栄であります。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。かくいう小生は素人だが、トゲのある門松は、諸君よりはいささか多くくぐってきている。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになるが、お互いが信頼し合うことが大切である。……思い切り仕事をしてくれ。しかし責任の全てはワシが背負う。以上!」

 「高小卒の土建屋あがり」とバカにしていたエリート役人たちの表情が、新米大臣の演説を聞くうちにみるみる変わっていったのを鮮明に覚えています。この演説を聞いた私は、卒業後はこの人の下で絶対に働きたいと強く思ったのです。

 田中角栄は、長く続いた「官僚政治」に風穴を開けたと言われています。オヤジさんが党政調会長を務めて以降、党政務調査会は議員が切磋琢磨して政策を学ぶ場となり、政策立案と決定作業に深く関与するようになったからです。

 近年、族議員への批判が強まっていますが、議員が部会に属し、その道の専門家になろうとすることは重要なことのはずです。そうでなければ、議員は官僚に操縦されてしまうだけです。しかも、彼は官僚の人心掌握の極意を知りつくしていました。

豪雪の苦しみから解放する

 大学を卒業した私は、晴れて「田中角栄秘書」となりました。以来23年間、オヤジに仕えました。私だけではなく、仕えている誰もが、オヤジさんとの関係を、単なる「使用人と雇われ人」という関係を超越したものと感じていたはずです。

 特に私にとって、オヤジさんは父親のような存在でした。とてもシャイで、人と一緒に風呂に入ろうとしませんでしたが、私には平気で背中を流させました。とても怖い人でしたが、ホントにオヤジが好きでした。

 私もここまで年を重ねてくると、オヤジさんに申し訳ないという気持ちがときどき起きます。平成5年12月16日に75歳で亡くなりましたが、それを遡る8年前の昭和60年2月27日に脳梗塞で倒れた時点で、政治家・田中角栄は終わってしまったようなものだったのです。身体も言葉も思うようにいかず、相当悔しい思いをしたことでしょう。

 オヤジさんの志とそれをやり遂げられなかった無念を、改めて思い起こす必要があると思います。私も若い頃には、「頑張ったヤツは勝って、楽をするんだ。負けたヤツは怠けたんだからしょうがない」という発想でした。しかし、年をとるにつれ、弱者やマイノリティを切り捨ててはいけないと考えるようになりました。それは、まさにオヤジさんの志だったのです。

 いまこのように取り沙汰される最大の理由は、みんなが「田中政治には情があった」と考えているからだと思います。総理になる少し前、オヤジさんはこう語っていました。

 「君たち。そこに困った人がいるのに、助けてやろうという気持ちが起きないヤツは政治家になんかなっちゃダメだ」

 これがオヤジさんの基本なのだと思います。あるとき、私は「政治とは何ですか」と聞いたことがあります。オヤジは、怪訝そうな顔をして「政治とは事を成すことだ」と言いました。「政治家は、マスコミや評論家とは違う。学者とも違う。理屈をこねるだけじゃだめだ。行動し、実現するのが政治家だ」と。

 オヤジのもとには陳情が殺到していました。陳情を否定的にとらえる風潮が強まっていますが、「困っているから陳情に来るんだ。困っていなければ陳情になど来ない。その陳情を聞いて、いかにそれを具現化できるかが政治家の仕事なんだ」とも言っていました。

 青年、田中角栄が政治家を目指した原点には、「ハンディキャップを持つ雪国の生活格差を政治の力で解決する」ことがあったのです。

 昭和38年には、豪雪に災害救助法を初めて適用しました。46年には、特別豪雪地帯に補助金を支給する制度を創設しています。同年、通商産業大臣に就任し、小長啓一さん(後に通産事務次官)が大臣秘書官になりました。岡山出身の小長さんに対して「君は、雪をどう思うかね」と問いかけ、戸惑う小長さんに、こう言ったそうです。

 「君も知っている通り、ワシは越後の出だ。雪が降ることで親子や夫婦が半年もの間、離れ離れになって生活しなきゃあならんのだよ。そういう働く場所のない彼らを、雪国の豪雪の苦しみから解放することが、ワシの生涯のテーマなんだ。君はそのことを肝に銘じて、仕事をやってくれんか」

 政調会長時代の昭和37年にオヤジさんが訴えた「都市と地方の共存共栄」は、日本列島改造論へと発展し、国土の均衡ある発展が目標となりました。

 ところがいま、地方は疲弊し、過疎化が深刻な問題となっています。例えば、老齢人口割合が最も高い、南牧村(群馬県)では、去年1年間に、出生はわずか3人、60人が亡くなりました。これでは、村がなくなるに決まっています。この状況を政治が解決しなければ、誰が解決するのでしょうか。

 「一票の格差」の是正が金科玉条のように言われますが、格差是正を徹底していけば、東京や大阪のような大都市にしか議員が存在しなくなります。人口比率だけでやるべきではありません。昔も今も、国会議員は地域の代表として地域のために頑張るべき存在のはずです。

 大震災から5年が経ちました。いまオヤジさんがいたら、被災地の復興のために、自らのエネルギーの全てを注ぎ込んだだろうと思います。

 「田中角栄ブーム」が単なるブームで終わることなく、改めて「政治の役割とは何か」を考え直す機会になることを切に願っています。

(『月刊日本』2016年4月号より)

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なお、7月2日に、弊社より、平野貞夫(著)『田中角栄を葬ったのは誰だ』を出版いたします。昨今の「田中角栄本」とは全く違う切り口になっています。Amazonでも予約可能です。ご一読いただければ幸いです。


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