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令和喜多みな実・野村尚平 写真小説『鹿太郎と云ふ男』

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 諸兄は、近代西洋音楽に於ける日本の祖を訊かれたならば誰を思い浮かべるだろう。朝日鹿太郎をご存知か。拙著では何を置いても彼を語らずにはいられない。

 1890(明治23)年、山口県厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)に本名を朝比奈嘉太郎(あさひな・かたろう)として生まれた。祖父は旧山口藩士で父は開業医、不自由の無い生まれであった。幼少期には末は博士か大臣かと囃されたそうだが無理もない。朝比奈の家では鹿太郎、もとい嘉太郎の上にいる二人の姉以降は子供に恵まれておらず、まして家業を継がせる男手は皆が諸手を挙げて待っていたのだ。

 そんな親の期待に背くように嘉太郎の体は弱く、4つ上の姉ていの元から常に離れずに居たそうだ。鞠つきを覚えたかと思えば興味は季節の草花や詩へと移り、10歳になる頃には両親も医者の道は諦めたらしい。
 ていのまた4つ上になる長女みさをは高等女学校へと進み、嘉太郎は自分の授業が終わると姉を迎えに行くふりをした。目的はただ一つ、みさをの教えてくれるピアノであった。譜面が読めるわけでなく、ただ隣に座って姉の真似をしたその演奏はいつの頃からかミスタッチまで完全に再現されていた。

「あの子は一つ教えると完璧にやって見せて、必ずそこに一つ自分の色を足す」
 みさをの手記にそう記されているように、非凡な才はこの頃には既に花開こうとしていた。
「川遊びへ行く」と言って出かけたかと思えば、姉の学校へと向かい練習に勤しんだ。皆が面白がって教えるので師事には困らなかったという。嘘をついてまで家を出るのは子供心に、両親の期待に沿うばかりかピアノに興じる後ろめたさがあったからだ。

 ある晩、寝床に嘉太郎の姿が無かった。それに気付いた両親は慌てふためき、消防まで駆り出される大掛かりな捜索となった。みさをは心当たりがあると言って学校へと走った。音楽堂からは夜中にも関わらずピアノが響き、扉の向こうで嘉太郎は一人で楽しそうに演奏していた。安堵から泣き崩れる姉に向かって嘉太郎は、飄々と譜の起し方を訊いた。その時に出来たのが後の「裸足の子」である。1901(明治34)年、嘉太郎11歳のことだった。
 
 話は現代に戻り、朝日鹿太郎だ。何故、今になって彼の再評価が高まっているのだろうか。いや、高まっていると言うには余りにもまだ認知されていないのが現状だ。
 今でこそテレビドラマや映画、CMの多くでその楽曲を耳にする機会こそ増えたが彼の名を知る者はそう多くない。

 28歳という早世と、名を残すには出典が不十分な物が多いことが理由か。中には同時代に活躍した者たちによる手紙の中での遊びで創られた人物とする話が、昭和の終わりまで信じられていたほどだ。かくいう私も朝日鹿太郎を研究する者として情けなく感じる瞬間がある。彼が遺した幾つかの楽曲は今にも通ずる素晴らしい物であるのに、確かにまるで絵物語の人物に思えるのだ。

 その昔、鹿太郎の没した東京の家を訪れた。国際的なピアノコンクールで入賞を果たした友人と共に足を向け、鹿太郎の息を感じたかったのだ。孫にあたる初老の女性が丁寧に案内してくださり、鹿太郎の書斎で小さなピアノと直筆の譜面を目の当たりにした時は感慨深いものがあった。中には発表されていない物もあ云ると言われ、覗いたと思えば友人が笑った。
「腕があと一本、その三本の腕に指をもう一本ずつ欲しい」と言わしめたそれは、鹿鹿太郎の演奏技術の高さの表れと同時に寓話性を帯びていた。

 20歳になった鹿太郎は、東京市本所区小泉町(現在の東京都墨田区両国)に下宿していた。この辺りから参考となる資料が一層と乏しい反面、後に生涯の友となる鳴沢(一郎)、古高(幹夫)に出会っており当時の書簡にも親密さが窺えるやり取りが多い。また伴侶となる榮(えい)との出会いもこの頃であり、鳴沢とは当初お互いが榮に意中であった。そのことから鹿太郎は「風の音(ね)」、鳴沢は「夜毎」を作曲しておりそのどちらも榮に対して作られた物とされるのが定説である。

 古高は当時の二人を思い出し、
「大体は朝日か鳴沢の寝床で酒を呑む。翻訳唱歌に対しての違和感や不満を述べるに始まる。日本独自の唱歌、それぞれの音楽を論じたかと思えば榮の話へと挿げ替わる。そうなれば二人は一層と熱を帯びるので、私は二人の残した酒をくすねて平らげた」と後年に語った。

 榮によれば、鹿太郎に名を変えたのは
「嘉はどうも柔和だ。雄鹿のように勇ましくあってこそ作られる音がある」とたびたび酔っては話していたそうだ。国立の音大出身である鳴沢や、海外への留学経験がある古高と自分を比べたのだろう。この頃から次第に肺を患い、後の創作全てを通して独自の死生観や儚さを詩に表現した物が色味を増していく。「雪の宿」、「ぽたぽた降る雨」、「満月」、「ぽん」などが顕著ではないだろうか。

 1918(大正7)年、夏頃には切望したヨーロッパへの留学が決まっていた。だが渡航を目前にして病状が悪化、その年の暮れに呆気なく没した。当年のスペイン風邪によるものとする説もあるが、長年の肺病もありはっきりとしない。
 患いながらも創作を止めなかったのは一つ執念を感じる。没年が鹿太郎にとって最も多作であったことは偶然ではなかったように思う。自身の最期を予見していたのではなかろうか。

 最も鹿太郎を有名にしたのは、悲しきかな先述にある家に遺された譜面や書簡が時代考証の観点から本人によるものではない可能性を指摘されたことだろう。連日の報道で、私の元へも幾つかの取材が舞い込んだ。

 朝日鹿太郎は、紛うことなく日本を代表する作曲家である。存在の有無を正確に確認することは困難を極めるし、何よりも無粋であると私は考える。もし彼が架空の人物であったとしても、あれらの楽曲は朽ちることなく現代へと受け継がれている。鳴沢、古高と同年代の作曲家と比べても作風は大きく異なる。それはみさをの言う自分の色に違いない。雄鹿のように逞しい音に違いない。病床で朝日を望み、彼は何を想っただろうか。

■令和喜多みな実プロフィール
野村尚平(右)、河野良祐(左)のコンビ。
2008年結成。野村の特技はギター/ベース。河野の特技はボイスパーカッション。
2019年 MBS「オールザッツ漫才2019」優勝

令和喜多みな実INFO

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著者/ 令和喜多みな実・野村尚平
画像提供/一般の方から

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