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令和喜多みな実・野村尚平 写真小説『わたしの影』

名称未設定のデザイン (2)

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名称未設定のデザイン (1)

 駅の駐輪場ったら朝7時には埋まっているのだから堪らない。歩けよ、と思う。私は不動産屋さんの説明が足らなかったせいで三つの駅のバミューダ中間の部屋を借りたので仕方ない。少し離れたところに停めると帰りに迎えに行くのが億劫だ。かといってその辺りに停めてしまえば2,500円をご老体に献上することになる。悔しい。今日は来ないと信じて銀行の前に停める。私が迎えに来るまでは堂々と
「ちょっと引き落としに来ました」という顔で立っていてほしい。
 2番線の5号車を目指す。それが最も効率の良い乗り換えだと知ったのは二度目の衣替えが過ぎた頃だ。私は信じた道がどうやら遠いと気付いても変えられない。学校からの帰り道がそうだった。卒業後に最短ルートを見つけた時は興奮して意味なく往復した。
 ホームには沢山の不満がスーツを着て並んでいる。溜め息の二酸化炭素は方々に飛んで植え込みを枯らしにかかる。イヤホンを耳に。乗り換えまでは8分なので二曲にしようか。
 JAMのアルバムを漁って「くじら12号」を選ぶ。アップテンポでないと仕事に足が向かない。何より「クラシック」を聴くには必要な助走だと思う。何とも失礼な女がここにいる。
 兄は昔、それはそれは得意げに映画「ファイトクラブ」はラストシーンでのピクシーズ「ウェア・イズ・マイ・マインド」を聴く為だけに観てると言い張った。その時は何だこいつと思ったが似たんだろう。
 25年近く経つのに今日もYUKIちゃんは可愛く歌い上げる。「今アツい奇跡が」に差し掛かる。
 高校二年生、体育祭が終わった打ち上げ。一つ上の先輩を、ただ足が早いのと制汗剤の匂いだけで好きになってしまった私はのこのこと二次会まで参加した。デンモクでそそくさとクラシックを入れる。
「姉ちゃんが好きだった曲だ、俺も好きなんだ」
 騒ぐな。こちらは調べてから来ている。落ち着いて郷愁に駆られろ。そして同世代でこれを知っている私を見てくれ。その時だった。
「今、松井秀喜が~」
 耳を疑った。こんなに固い韻があっただろうか。誰がもう一つのマイクで歌ったのか犯人探しはどうでもいい。彼は涙が出るまで笑い転げた挙句に少し漏らしたとトイレに駆け込んだ。
 思い出して悶絶した頃には駅を通り過ぎていた。反対側に渡るには長い階段を上がって回り込まなくてはならない。私は迷わずタクシー乗り場に向かった。
「これで何度目だ」と訊かれたのは人生で何度目だろう。
「デスクもう少し整理してください。こちらにまで来てます」は今日で三回目だ、間違いない。
 昼ごはんは生きる為だけに口に放り込んでいる。糖分が頭に行かないと何も手につかないからだ。それで無くても手につかないし今日も地に足がつかない。
「なーに、食べてんの」
 この喋り出しに於ける何、を伸ばしてしまう男にロクな奴はいない。相手にしたくないので小さく「山菜おこわ」であることだけを伝えてイヤホンを取り出した。まだ何か私に向かって話している。不憫なのでイヤホンを取ると屈託のない笑顔を見せる。聞けば同じ部署だと言うが覚えがない。ぼんやりと、堆く積まれた資料から確かにこの髪型を見かけた覚えがある。私はとかく人の名前と顔を覚えるのが苦手だ。引き出しには捨てるに捨てられない、どこまでもどうでもいい思い出で埋まっているのだ。明日にはあなたを忘れているだろう。私の頭の中の砂消しは、あなたの顔を藁半紙のようにボロボロになるまで擦るの。ごめんなさい。そんな私にどうして興味があるの。なーに、顔を赤らめてるの。お願いだから好意を寄せないで。
 でもどういう訳か、彼とは初めて会った気がしない。いや、そりゃあ初対面ではないのだけれど。何だろう、懐かしい気持ちになる。
 先日、結婚をした友達が言っていた「旦那とは初対面の時、ずっと前から知り合いだった気がした」という手垢塗れの惚気話を思い出した。これがそうなのか。
「あの、誰かに似てるって言われますか」
 きっと空似の人が居て重なっているんだ。そうに違いない。止めて、運命がこんな昼休憩に襲って来ないで。
 彼は少し照れ臭そうに「松井秀喜」と答えた。今とても小さなアツい奇跡がこの私の胸に吹いている。
 そこから一日を通して私は凄かった。頭が彼でいっぱいになった。大切な署名、捺印を求められても松と書き出した。二枚も。これが恋の力か。
 退勤の時に秀喜は私に向かって大きく手を振っていた。スタジアムには私しか居ない。野球選手の妻の気持ちを窺い知ることができた。
「ここいらでアイツに決めて、手打ちにしたらどうだ」
 私の中のタイラー・ダーデンが話しかけてきた。そんな訳ないだろう。
 母から連絡が入る。
「どうですか」
「何が」
「ここのところです」
「普通です」
「そうですか」
「どうかしましたか」
「いえいえ、失礼しました」
「お父さんですか」
「いいえ」
「じゃあ、どうかしたんですね」
「いえいえ」
「兄嫁ですか」
 母は暫く間を空けて、パンダが半ベソかいてるスタンプを送ってきた。無料だった。こちらが返事に困っていると、続けて
「ウソ、ウソ。また背中丸めて歩いてないかなって思っただけ」
 私はホームで写真を撮った。
 今日もどっこい何とかピンとしています、と。
 電車がやって来た。扉は△の前で止まった。自転車は旅立って、私は影を何度も踏みながら歩いた。痛くも痒くもないね。

■令和喜多みな実プロフィール
野村尚平(右)、河野良祐(左)のコンビ。
2008年結成。野村の特技はギター/ベース。河野の特技はボイスパーカッション。
2019年 MBS「オールザッツ漫才2019」優勝

令和喜多みな実INFO

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著者/ 令和喜多みな実・野村尚平
画像提供/一般の方から




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