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存在を楽しむ

なんだか自分を責めなくなって、生きてることが楽しくなってきた。
こんな感覚、これまで味わったことなかったな。
いま振り返ると、ずっと私「死なないため」に生きてきたような気がする。
いろんなことを体験して、楽しむために生まれてきたはずなのに…。
死ぬのが恐ろしいから、死なないためだけに生きる。
ホントに、本末転倒もはなはだしいけど。
でも、恥ずかしいけどそれが真実で。
こんなふうに「生きてるだけでなんだか楽しい」なんて感覚は、感じたことがなかった。
そうか、自分の存在を自分で認められてなかったから…。
「存在する嬉しさ」も、感じることができなかったんだ。
なぁんにもしてなくても、生きてるだけでうれしい。
ぼやぼやしてたら、あっという間に夜になっちゃった日にも「あぁ、今日も楽しかったぁ」って笑ってられる。
こんな、当たりまえのことが、いま、とてつもなく嬉しい。
満たされてる。
「自分を責めない」って、こういうことなんだぁ。

でもまぁ、死なないために生きていたことが、時間をムダにしてきたように思えて。
もったいなくって、しょうがなく感じてた時期もあったけど。
いまは、そうは思わない。
だって、三次元っていうのは二元性の世界だから。
「ある」と同じだけの「ない」がなければ、存在すらできないもの。
つまり、自分の存在価値をまったく感じられない日々があったから、いまになって存在する嬉しさをこんなにも色濃く体感できてる。
それと同じように、これまで「受け入れられない」経験をイヤというほどしてきたから、これから逆の経験だって同じだけできるはず。
確かに、少し時間を消費しすぎた感は否めないけど。
時間なんて一定のスピードで流れてるように見えて、実は感じている主体のあり方しだいでいくらでも伸び縮みするものだと私は思っているので。
これから私なりに楽しい日々を、これ以上ないくらい濃密に感じていければ、私としては大満足。
それと、私たちの主体は「意識」というエネルギーであって、形を変えることはあっても永遠に存在し続けるということを、体感とともに腑に落とすことができたので。
いま生きている、この生を終えることが恐くなくなったことが、とっても大きい。
ホントに大げさではなく「明日死んでもいい」と、いまでは思えている。
もちろん、死を目前にしないと、本当のところは分らないのだろうけれど。
死への恐怖に囚われてしまうのは、元気に生きてる「いま」だから。
いま、恐がらずに生きられているというこの現実が、私にとっては何より大事。
逆にいまは、死を目前にしたときに恐かろうが、恐くなかろうがどっちでもいい。
たぶん「本当のこと」なんて、それくらい実体のないものなんだと思う。
…話が逸れてしまったけど。
とにかく私いま、存在できていることそのものが楽しくってしかたない。
そしてこれから先、よくなってく気しかしない。
これって何より、嬉しいプレゼントだと思う。
だからいつ死んでもいいけど、生きてられる限りは、楽しみたい。
それだけ。

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では、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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