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“ある”という経験

自分を認めないことは、この世界の恩恵を放棄することなんだ。

それが、だんだん見えてきたけど。

だからといって、自分を否定し、責め続ける一生がダメなわけじゃない。

それだって、立派な経験としてアーカイヴされて。

後の人たちに、立派に役立ててもらえる。

私たちの一生、つまり、“ある”という経験は。

“ない”へと戻る、“死”という最後の経験がないと成立しない。

だから、終わりがある、限られたものだって受け止めてしまうかもしれないけど。

でも、“ない”ってどういうことかというと、“全体”へと戻ることで。

消滅することじゃないんだよね。

う〜ん、伝わる気がしないけど。

今日は自分の納得のために、書いてます。

ちんぷんかんぷんだったら、ゴメンナサイ。

えーと、それじゃあ、“ある”っていうのは、どういうことかというと。

非二元的な言いかたをするならば、“分離”の経験で。

私とあなた、私と他者、私と世界っていう、“関係性”の経験とも言える。

それは身体っていう、“ある”の象徴を身に着けていることによる必然で。

本当は、すべて幻想なんだけど。

“ある”をするということは、別の存在と関係を持つことと同一なの。

つまり、生きることは、“関わる”ことと同一で。

人と関わる、社会と関わる、世界と関わる。

これをしないと、その場に留まり続けることになっちゃうのね。

それって、変化せずにただ、“ある”だけってことで。

ロールプレイングゲームを、何も操作せず、ただ見てるのといっしょってことなんだね。

この状態は、果たして“死”とどこが違うのでしょう?ってなっちゃう。

でも私は、そういう状態があってもいいと思う。

そういう状態は結局、何らかの関わりを促す役割を果たすから。

だって、「関わらない」という概念は、対立概念である「関わる」がないと成立しないでしょ?

どちらか片方だけでは、存在し得ないのよね。

それが、私たちが変化し続ける存在であることの所以なんじゃない?

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