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感情とは?

ここ数日、いろいろ考えるところがあったので、今日は「感情」というものについて考えてみようと思う。

一般に感情とは、何らかの出来事に接した反応として、自分の内側に巻き起こる情動といった説明がしっくりくるのではないか。

何らかの出来事、つまり変化に接したことによる、こころの動きと言い換えてもいい。

では、人が生まれ成長してゆくに伴い、どのように感情が育ってゆくのか?

順を追って、考察していこう。

最初に生まれる感情のタネは、たぶん「快・不快」の二種類で間違いないのではないか。

赤ちゃんはおむつが濡れていれば不快で泣くし、近くに人の気配を感じることで快を得、安心する。

親が話し掛けるとキャッキャと手足をバタバタさせるのは、やはり本能的に、親から注目されると強い「快」を感じるようにプログラムされているんだろう。

さて、ここでズバリ言うけれど、私は感情の本質とは「体感」だと思う。

体感、すなわち肉体に起きる感覚ってことだ。

エビデンスはないけど、最初に生まれる「快・不快」はそれぞれ体感と感情がセットでプログラムされており、その時点ではあまり個体差はないのではないかと思う。

ところが、赤ちゃんの段階で「快・不快」どちらかの体感ばかり感じて育ってしまうと、あるいは強烈な体感に圧倒されるような経験をすると。

そこだけ感覚が育ってしまう。

つまり、自我が発生する前に「折りグセ」みたいなものがはっきりと付いてしまう。

そうすると、ものごころがついてからも、折りグセがついたほうにまつわる体感ばかりを感じることが多くなる。

まつわるっていうのはどういうことかというと、私たちのあらゆる感情って、この「快・不快」から派生してるんじゃないかって気がするんですよ。

「ポジティブ」とか「ネガティブ」って呼びかたは好きじゃないけど、分りやすく言うと「快」を細分化したものが様々なポジティブ感情であり、「不快」を細分化したのがネガティブ感情なんじゃないかってこと。

で、私たちっていろんな体感に対して、それぞれ後付けで感情をひも付けてるんじゃないかな。

たとえば保育園で褒められたときに生まれた感情に対して、親や先生が「うれしい」って言葉を当てはめると、次からは自分でもそう感じるようになる。

そうやって「快・不快」の近似エリアの体感に、いろんな言葉による感情をひも付けていったような気がする。

だとすると赤ちゃんレベルのトラウマがある人は、「快」にまつわる感情、つまりそれにひも付いた体感を感じづらくなって当然なんですよ。

「不快」の回路が強化され、その周辺の神経組織に血流が多く流れ、感覚自体も磨かれていってしまうわけだから。

これはすべて、私自身の体感を元にした、想像でしかないけど。

そうじゃないかなぁって、感じがする。

もちろんエビデンスは何ひとつ、ありません。

ホームページをつくったので、ぜひ、見てみてください。

naotadano.com

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では、また。

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