見出し画像

【小説】外異魔のツドイ #2

 十年前——。
 凪渚なぎ なぎさは、夢中で走っていた。母親に右手を引かれ、左腕でお気に入りのぬいぐるみを抱え、小さな両足は火を吹きそうなほど忙しなく地面を蹴っていた。

 小学生になったばかりの渚は、あの日、普段通りの休日を自宅で過ごしていた。
 誕生日にプレゼントしてもらった色鉛筆で絵を描いていると、突然、遠くから地響きが近づいてきた。音がはっきりと聞こえるころには、家ががたがたと揺れていた。渚は母親に抱かれてダイニングテーブルの下に潜り、揺れがおさまるのをじっと待った。恐怖で固まったまま、自分の心臓の音でかき消されそうな「大丈夫よ」という母親の細い声を聞いていた。東京は、よく地震が起こる土地だ。だからそれも地震だろうと渚は思った。
 揺れがおさまると、母親は「ここで待っていて」と言い、テーブルの下に渚を残したままベランダに向かった。大きな窓が開けられると、それまで聞こえていた騒音がさらに大きく家の中に響き、幼い渚でも外の惨劇を察することができるほど、うるさかった。母親が戻ってくると、渚の手を取り「逃げるよ」と言った。見たことのないような、険しい顔だった。
 非常階段を使って一階まで降り、マンションの外に出ると、知らない景色が広がっていた。
 不可思議な建造物が地面から生えるように現れ、先ほどまで渚たちがいたマンションも、今にも飲み込まれそうになっていた。逃げ惑う人々の中に、謎の生き物が混ざっている。それは人間や動物ではない、地球上の生物とは思えない見た目のものばかりだった。
 渚は、母親とともに人波をかき分け、ひたすら走った。母親は行き先を言わなかった。きっと父親のところに行くのだろうと渚は考えていたが、それを確かめることはできなかった。母親は逃げる途中、渚の目の前で死んだ。

 その騒動で家や保護者を失った子どもたちのために保護施設が仮設され、渚と妹のしおも、そこで暮らすことになった。
 施設は急遽造られたというのが信じられないほど、整っていた。大きな図書館や遊具の揃った公園、医師が常駐する病院、学校も初等部から高等部まであった。日常生活や学業に不自由することはなく、たくさんの子どもたちとともに過ごす日々に寂しい思いをすることもなかった。ただ、そこでの生活に、渚は息苦しさを感じていた。
 当たり前の、そして仕方のないことだが——子どもたちは全員、心身ともに傷つき、荒んでいた。職員や教師も、いつもどこかに暗い影を落としていた。渚は一日でも早く施設から出たいと常々思っていたが、幼い姉妹の元に迎えが来ることはなく、そのままおよそ九年間、そこで暮らした。

 十年前、突如現れた謎の生物。
 後に”外異魔ゲイマ”と名付けられたそれらは、ゲームから現実世界に出てきたモンスター等だと言われているが、その原因は不明のままだ。仮想現実や拡張現実ではない。そこに、確かに存在している。
 他に「ゲーム内キャラクターを模して襲来した地球外生命体だろう」という説もあるようだが、その正体が何であれ、現代の科学では解明できない不思議なことが起こっている——というのが、外異魔を目の当たりにした者の共通認識なのは間違いない。

 渚は、生まれて初めて触れた外異魔の——つどそうというシェアハウスで会った男の手の感触を思い出し、やり場のない感情を噛み殺しながら、自宅までの道のりを歩いた。

 家に到着しドアを開けると、夕食のいい香りが溢れ出るように漂った。靴を脱ぎ、居間に続く引き戸を開けて中を覗くと、奥の台所からひょこっと出てきた佳子けいこが「渚ちゃん、おかえり」と言った。しわのない真っ白な割烹着姿で、右手に菜箸を持っている。
「ただいま。手伝えなくてごめんなさい、バイト休みなのに」
「いいのよ、そんなの。気にしないで」
 佳子は丸い顔をさらに丸くし、にこにこと笑った。急いで台所に入ろうとする渚を手で押し止めると、
「もうできるから、着替えて汐ちゃんと一緒に降りてらっしゃい」と言った。
 料理を再開した佳子が、旧式のガスコンロに火をつける。おたまで鍋をかき回しながら、鼻歌を歌っている。その背中を見ているだけで、心の奥底にこびりついていた緊張が解けていくようだった。
 二階に上がり自室に入ると、汐が机に向かっていた。渚が「ただいま」と声をかけると、汐は顔を上げずに「うん」と生返事をした。宿題でもしているのだろう。
「ご飯、もうできるから降りてきてだって」
「うん、聞こえてた」そう言いながら、汐はまだ手元に集中している。
 渚は箪笥から適当な服を出し、制服からそれに着替える。脱いだスカートをハンガーに吊るしてポケットに触れると、そこにあるはずのスマートフォンが入っていなかった。通学カバンの中身を全て出して確認するが、見当たらない。手元にスマートフォンがなくて困ることは特にないが、失くしたとなると話は別だ。
 最後にスマホを見たのは——と思い起こし、はっとする。
 集い荘だ。部屋を見て回って、ソファに座って、スマホで時間を確認して、あの男が帰って来て——。
「渚ちゃん汐ちゃん、ご飯できたよ」
 階段の下で、佳子が呼んでいる。ようやく顔を上げた汐がタブレットとペンをランドセルにしまっている。できれば渚も、今は夕食のことだけ考えたかった。汐は渚をちらりと見てから部屋を出て行く。階段を降りる汐の足音が聞こえなくなると、無意識にため息が漏れた。

 夕食後、佳子が洗った食器をふきんで拭きながら「この後少し出かけますね」と声をかける。
「あら、こんな時間に?」こちらに顔だけ向けた佳子が、大袈裟に目を見開いている。
「今日……友達と行ったカフェに、スマホ忘れちゃったみたいで。取りに行ってきます」
「車で送らせましょうか? 啓介けいすけさん、まだ飲んでないでしょ」
 外はすでに日が落ちているが、日中焼かれたアスファルトがまだ熱気を上げているはずだ。その中を歩く煩わしさを思えば車での移動は魅力的だが、まさか連れ立って集い荘に行くわけにもいかない。
「大丈夫。近いし、スマホ取りに行くだけだから。バイトの日より早く帰れるよ」
「そう? 一人で行くなら充分気をつけてくださいよ。食器はもういいから、早くいってらっしゃい」そう言うと、佳子は皿洗いに戻った。
「うん、ありがとう」
 ふきんを物干しにかけて居間に戻ると、テレビを見ていた汐が「お姉ちゃん、どこか行くの」とこちらを見上げて言った。純粋な好奇心なのか、珍しく夜出かけていく姉を案じているのか、その表情からは読み取ることができない。
「うん、ちょっと忘れ物取りに行ってくる」
「そうなんだ。すぐ帰ってくる?」
「……すぐ帰るよ」
 玄関でスニーカーを履きながらそう伝えると、汐は「いってらっしゃい、気をつけてね」と寂しそうに微笑んで小さく手を振った。
 汐は姉の行動に干渉することも、甘えてくることもほとんどないが、時折こうして妙に妹らしい一面を見せることがある。そんなとき、愛おしさや嬉しさが込み上げるよりも先に、渚の頭は戸惑いでいっぱいになる。それを悟られないよう繕うと、汐は決まって泣きそうな顔で笑うのだった。

 ——また来ることになるとは。
 渚は重く沈んでいく気持ちを背筋と一緒に立て直し、目の前のドアをノックする。すると、すぐにばたばたと人が近づく音が聞こえ、勢いよくドアが開いた。顔を出したのは、昼間会った管理人とは別人だった。
 一言で言えば、とにかく派手な男だった。指や耳にいくつもアクセサリーをつけ、全身黒尽くめの服には何本もチェーンがぶら下がっている。おまけに、綺麗に染まった銀髪だ。ここの——集い荘の、住人だろうか。
「あの……」渚が口籠ると、男が
「こんばんは。もしかしてスマホ取りに来たの?」と言った。
 管理人の男から、事情を聞いていたのだろうか。渚が「そうです」と答えると、男は「ちょっと待ってて」と部屋の中に消えていった。
 体感で、二分ほど待った。大人しく待てないことはないが、じっとドアの前に立っているには長い時間だった。そろそろ催促してもいいかな——と考えていると、再びドアが開いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」男が差し出したスマートフォンを受け取る。
 改めて男の顔を見ると、レンズに縁のない地味なメガネをかけていた。顔立ちもどちらかといえば質素だ。顔だけ見れば普通なのに、と渚は思った。
「あと、あいつが」男が自身の背後を指差して言った。「管理人のTつぐくんが、キミに謝りたいって言ってるんだけど……少し時間あるかな」
 管理人の男は”ティーツグ”というらしい。名前かあだ名か、どちらにせよ耳慣れない響きだ。
「いえ、謝っていただくようなことはありません。私こそすみませんでしたと伝えてください」
「そこにいるんだから、直接言えばいいのに」
 そう言うと、男は何かを確認するように部屋の中を振り返る。また渚に向き直ると
「入りなよ。何もおもてなしできないけど」
 と言った。渚もつられて部屋の中に目を向けると、そこは渚が入ったことのあるリビングに違いないのだが、昼間見たときよりも明らかに生活感があった。暖色の照明がついており、壁際の棚には雑誌や書籍が隙間なく並んでいる。その棚の横には背の高い観葉植物も見える。微かにコーヒーの香りがする。何もなかったソファの前には、ローテーブルが出ている。
 目の前の男に遮られて姿は確認できないが、管理人の男もそこにいるのだろう。
 部屋の変貌には興味をそそられたが——。
「いえ、結構です。あの……スマホありがとうございました」
 渚は頭を下げ、返事を待たずに踵を返す。食い下がられるのではと思ったが、すぐに「また遊びに来てね」という声と、ドアの閉まる音が聞こえた。
 スマートフォンで時間を確認すると、家を出てからちょうど二十分たっていた。
 渚は思う。もう関わりたくはないが——いかんせん、自宅も学校もここから距離が近すぎる。最寄駅も共通だ。集い荘の住人と渚は、ほとんど生活圏が被っているだろう。どこかで偶然会うこともあるかもしれない。渚が先に見つけた場合は避ければいいが、話しかけられて無視できる自信はない。それに、今の男はずいぶん馴れ馴れしい人だった。
 ——馴れ馴れしい”人”だった?


     *


「帰っちゃった。もっと真面目に引き止めたほうがよかった?」
「いや、いいよ。それより彼女、なんか言ってた?」
「もう一生、お前には会いたくないってさ」
「……」
「嘘だよ」
「嘘かよ」
「私こそすみませんでした、だって。あ、でも顔には会いたくないって書いてあったよ」
「……おい、リビングは禁煙だってば」
「知ってる」
「なら吸うな」
「えっと……凪渚さん。人間の女性。年齢は十七。血液型はA。誕生日は五月七日。区立南高校の——」
「商店街抜けたところの?」
「そう、そこの二年生。俺、今まで仕事で色んな人間と話したけど、女子高生は初めてかも」
「それで?」
「ん?」
「他にも調べたんだろ」
「あぁ、うん。現住所はここから歩いて十五分くらいのところ。家族構成は——あぁ、なるほど」
「なんだよ」
「凪渚さんが今住んでるのは”タマイ”っていう人の家らしい。そのタマイさんも人間だけど、凪渚さんの血縁者ではない。養子縁組も結んでないから戸籍上は他人。で、そこに住む前は孤児院に八年十ヶ月いた」
「戦争で両親亡くしてるってこと?」
「まぁ、そう考えるのが自然だけど——ん? なんだこれ」
「どうした」
「……いや、なんでも。今調べられるのはこれくらいかな」
「顔見ただけでそこまでわかれば充分だろ」
「必要だったら事務所帰ってもう少し調べるけど」
「あぁ、頼む」
「それはお前からの正式依頼ってことでいい?」
「……金取るのか」
「取るでしょ。で、何を調べればいいの? 内容によっては安くしてあげてもいいよ」
「調べるっていうか……説得して連れてきてよ。ここに」
「それは探偵の仕事じゃないと思うけど」
「でも、できるだろ」
「さぁ、どうかな。女子高生と話すの初めてだし」
「失敗しても金は払う」
「それならやる。五日ちょうだい」


     *


 四時間目終了のチャイムがなると、数学を担当する年配の男性教師が教卓を離れるより前に、紗織が席を立った。それが解散の合図かのように、他の生徒も続々と動き始める。紗織は渚の席まで来ると、ちょうど空いた一つ前の席に座り、「お昼どうする?」と言った。
「お弁当あるから教室でいいかなと思ってたけど」
 カバンから巾着の包みを出す。「毎日学食じゃ飽きるだろうから」と、佳子が弁当を持たせてくれることが週に何度かあった。
「あ、お弁当か。じゃあここで食べよ」と言って、紗織は手に提げたコンビニのビニール袋から菓子パンと紙パックのミルクティーを取り出し、机に並べた。
 渚は昨日起きたことを紗織に話すか否か、登校の最中から今まで迷った結果、まだ決めかねていた。メールを受け取ったこと、渚が集い荘の存在を気にしていることは、昨日のうちに話している。一緒にマップも見た。であれば話すべきという気もするが、好奇心むき出しの行動をあけすけに報告するのはさすがに憚られる。紗織のことだから、また「渚は騙されやすい」などと言いそうだ。そう尻込みしていると、
「ねぇ、昨日のなんとかっていうシェアハウスの話、あったじゃん」
 と紗織から切り出され、渚は口に入れたばかりの米を吹き出しそうになった。
「え? あぁ、うん。それがどうしたの?」
「昨日、家帰ってからその話思い出しちゃってさ。行ってみたんだよね」
「え、集い荘に?」
「あ、そうそう。そんな名前だっけ。誘おうかと思ったけど、時間微妙だったからやめたの」
 まさか紗織がそこまで興味を持っていたとは、思いもしなかった。話しぶりからして、渚が集い荘を訪れる姿は見ていないということだろうか。
「行ったけど、マップで見るよりもっとちっちゃい一軒家だった。表札出てなかったから、空き家かも。ボロくて汚かったし」
「え、表札なかったの?」
「うん、なかったよ。なんで?」
「ちょっと、気になっただけ」
「表札とかポストとか、どっかに名前書いてないかなと思ってわりと真面目に探したけど。見つかんなかった」
「じゃあやっぱり、シェアハウスっていうのは嘘だったんだ」
「うん、あれでシェアハウスは絶対ない」
 紗織はそう言い切る。内装とその正体を知っている渚も、外観に対しての感想は同じだった。
 紗織が一度帰宅してから集い荘に向かったということは、着いたのはちょうど渚が中にいた時間か、帰った後だろう。タイミングが違えば、集い荘の前で鉢合わせになる可能性もあったということだ。紗織が渚と同じようにドアを開け、そこで対面する可能性だってあった。どちらの場面にも遭遇しなくてよかった、と心から思う。
 それにしても、紗織が表札はなかったと言ったのが気になる。目立つような表札ではなく確かに文字もかすれていていたが、渚ははっきり『シェアハウス 集い荘』と読むことができた。位置や大きさからしても、見逃すことはないように思う。目敏い紗織ならなおさら——
 ぱん、と紗織に目の前で手を叩かれ、我に返る。「渚、聞いてる?」
「あぁ、ごめん」
 それを聞いた紗織は「もう」とわざとらしく頬を膨らませる。渚がもう一度謝ると、空振りだったシェアハウスの帰りに、駅前に新しくできたカフェに行こうとしたが、満席で入れなかったからリベンジしたい——ということを話してくれた。
「次バイト休みのときに付き合って、渚」
「うん、いいよ。次の休みは……確か金曜だったかな」
「了解、金曜ね」そう言うと、紗織は満足そうに繰り返しうなずいた。
 渚は結局、自分が集い荘に行ったことは話さなかった。

 最後の授業が終わり校舎から出ると、昼すぎまで晴れていた空には灰色の雲が垂れ込め、強めに吹きつける生ぬるい風は埃っぽいにおいがした。朝の天気予報を見て折り畳み傘はカバンに入れてきたが、出すのもしまうのも面倒だ。雨が降り出す前に、アルバイト先に着きたい。
 急ぎ足で正門を出ると、向かいの歩道に見覚えのある人影があった。すぐに目を逸らしたが、あの派手な風貌と銀髪を、確かに渚は知っていた。昨夜、集い荘で会った男だ。渚は男の視線を避けるように俯き、他の生徒に紛れて駅のある方角へ向かった。
 そのまま五分ほど早歩きをした。その間声をかけられることも、誰かがついてくる気配もなかった。後ろを確認したかったが、もしそこに男がいたらと考えると、振り返ることができなかった。
 いや、と渚は思う。そもそも渚を待っていたわけではないかもしれない。昨日も実感した通り、集い荘と自宅、そして学校と集い荘もかなり近い距離にあった。地図上に並べて真上から見ると、どの辺もだいたい同じ長さの綺麗な三角形になるはずだ。道端で見かけることがあってもおかしくない。それに、渚がこの学校に通っていることは知らないはずだ。であれば、待ち伏せはできない。そう、ただの偶然だ。
「こんにちは」
 背中にかかるその声に、渚はあまり驚かなかっった。頭のどこかで、なんとなくそうなるような気がしていたからだ。諦めの気持ちで立ち止まり、振り返る。
「覚えてる? 昨日会ったんだけど」男が言う。
「覚えてますけど……私に何か」
「突然ごめんね。ちょっと話があって」
「すみません、私これからバイトなので」と言って軽く頭を下げる。
 渚が歩き始めると、男が少し遅れて後をついてきた。
「バイト先、歩いて行くの?」
「そうですけど」
「じゃあ着くまででいいから、話聞いてくれない?」
 男は小走りで渚に追いつき、横に並ぶ。強引な行為にもちろん不信感はあるものの、わざわざ待ち伏せてまで話したいという、その内容は気になる。渚は拒否も肯定もせず、同じペースで歩いた。
「Tつぐ……ってあの管理人ね。あいつから聞いたよ、昨日のこと」
 昨日のこととは、集い荘で渚としたやりとりだろう。Tつぐ——そう呼ばれる管理人の顔を思い出す。同時に、触れた手の無機質な感触もよみがえってくる。
「Tつぐ、いきなり『外異魔です』とか言って、びっくりさせちゃったんだって?」
 確かに、驚いた。驚きすぎて頭が真っ白になり、何も言わずに渚は集い荘を飛び出した。
「人間かと思って握手したら外異魔でした、なんて冗談でも笑えないよね」
 そう言いながら、男は笑っている。
 渚の、外異魔に対する反応が一般的だったかどうかは、わからない。外異魔が現れてから十年間、触れるどころか、あの距離で見ることもなかった。
「本人も謝りたがってたんだけど……キミはもう会いたくないだろうと思って、俺が代わりに。ごめんね、嫌な思いさせて」
 そう言って頭を下げるが、この男に謝罪される謂れはない。本当に謝るべきなのは、この男でも、あの管理人でもなく、自分自身だ——と渚は思う。
 この世に現れた全ての外異魔が、人を攻撃したわけではない。むしろ、ほとんどの外異魔は人に危害を加えていない。だからこそ、今こうして外異魔と人間が共存できる都市”混沌東京 カオストーキョー”が存在している。外異魔の出現によって急速に技術は進歩し、人間の生活も便利になった。
 それは、渚もわかっている。理解した上でやはり許すことのできない外異魔に対して、どんな態度を取ればいいのか——それがわからず、関わることをずっと避けてきた。
「昨日も言いましたけど」
 渚は立ち止まり、男の方を向く。車道に降りた男の顔は、ほとんど渚と同じ高さにある。男も歩くのをやめ、渚を見る。
「謝っていただく必要はありません。管理人の方から何と聞いたか知りませんが、勝手にあそこに入っておいて、失礼なことをしたのは私です。だからもう——」
「失礼だなんて。俺たちはキミが来るのをずっと前から待ってたよ」
 ——待っていた? 私を?
「どういうことですか」
「気になる?」
 男はじっと渚の目を見据えている。
「教えてあげようか。凪渚さん」
「なんで——」
「なんで名前知ってるの、って思った?」
 男は左の口角を上げ、口元だけで笑った。戸惑いまごつく渚を見て、遊んでいるとしか思えなかった。
「いえ、もういいです。さようなら」
 渚がその場を離れると、ぽつりと額に雨粒が落ちてきた。手のひらを空に向けると、次々に水滴がついた。渚は歩く速度を緩めず、折り畳み傘をカバンから取り出す。
 男はそれ以上ついてこなかった。

 案の定、と認めるべきだろうか。
 あの会話をして以来、男の言葉が渚の頭を離れることはなかった。授業中も、アルバイト先でも、そのことばかりを考えてしまう。男の策略にまんまとはまったようで、腹立たしかった。
 後から冷静になって考えれば、メールに宛名が入っていたのだから、名前を知られていてもおかしくない。制服姿で会った管理人には、渚が通っている学校も簡単にわかったはずだ。それに、名前や学校を知られたからといって、困ることもおそらくないだろう。ただ、
 ——俺たちはキミが来るのをずっと前から待ってたよ。
 あれは一体、どういう意味なのか。
 メールの内容とあわせて考えれば、「集い荘のオーナーになってくれる人を待っていた」ということになるが、それなら渚にこだわる必要はないはずだ。渚が引き受けなければ、次の候補を探せばいい。なぜわざわざ渚にあんなことを言ったのか。いくら考えても自分を納得させる答えは出てこなかった。
 頭にかかったもやが消えないまま迎えた金曜日、約束通り紗織と新しく駅前に開店したカフェに行った。雨の影響か、店内は空いていた。店員におすすめされるまま、飲み物とケーキをそれぞれ注文した。雑談しながらケーキを食べ終わると、その日配られた宿題を分担して片付けたり、間もなく始まる中間試験に向けて得意な科目を教えあったりした。教えるのは主に渚の役目だったが、一人で自宅の机に向かうよりも勉強は捗った。
 そろそろ帰る時間か——というころ、教材を片付けていた紗織が「あ、雨あがってる」と言うので窓の外を見ると、つい先ほどまでざあざあ降っていた雨が嘘のように止んでいた。紗織が続けて「私が晴れ女でよかったね」と楽しそうに言うので、「ありがとう」と笑い返す。その何気ないやりとりに、頭のもやも少し晴れたような気がした。
 店を出ると、晴れてはいないものの、雲は空の高い位置に薄く浮かんでいるだけだった。帰るまで雨の心配はなさそうだ。電車に乗る紗織と駅前で別れ、帰路につく。

 理由はわからない。ただなんとなく、そうなるような気がしていた。
「こんばんは、渚さん」
 聞き覚えのある声がする。渚は歩き続ける。
「……いつから待ってたんですか」
「二時間くらいかな。外から偶然見かけて」
 男は渚の左側に並ぶ。服についたチェーンが、じゃらじゃらと音を立てる。
「なんで待ってたんですか」
「やっぱり諦められなくて、渚さんのこと」
「シェアハウスのオーナーを探してるんでしょ? なら私じゃなくてもいいですよね。あまりしつこく関わらないでください」
 余裕のない自分と男の振る舞いの温度差に、渚は苛立つ。
「待って、ちゃんと説明するから。落ち着いて、ね」
「嫌です。ついてこないでください」
 渚がそう言うと男は黙ったが、隣を歩くことはやめなかった。二人とも黙ったまま、しばらく並んで歩いた。
 男が次に口を開いたのは、自宅までの道のりを半分ほどすぎたころ、赤信号で立ち止まったときだった。
「渚さん、”外異魔大戦”より前のこと、覚えてる?」
 渚は、答えられない。
「小さかったから曖昧になってるんじゃなくて、全く覚えてないんじゃないかな」
「……だったら、なんなんですか」
 男の言う通りだった。
 渚には、十年前に起きたあの騒動——”外異魔大戦”以前の記憶がない。それが判明したのは、施設での生活が始まってから数ヶ月後、渚のもとに父親の訃報が届いたときだった。渚は職員の話を聞きながら、自分が父親のことを全く覚えていないことに気がついた。最期まで一緒にいたはずの母親のことも、当然のように思い出せなかった。
 それでも渚自身には記憶喪失という自覚はなく、幸せな思い出を隠すように、空っぽの十年間が降り積もっただけ——という感覚だった。そうやって、自分を納得させてきた。
「嫌なこと思い出させて、ごめん」男の声が、急に柔らかくなる。
 それを聞いた渚の目から涙が勝手に溢れ、雨に濡れたアスファルトに落ちる。
 本当はずっと、苦しかったんだ。
 過去の記憶がないという事実が——家族を、そして自分を思い出せないのが——こんなに寂しいことだったなんて、知らなかった。
「いつでもいいから、集い荘に来て。俺の知ってることでよければ、全部話す」
 渚は男を見る。薄いレンズの向こうで、その目は優しく笑っている。そんな顔もできるんですね、と心の中でつぶやく。
「家まで送るよ」
 そう言ってメガネの位置を直す男の後ろで、空が燃えるように赤く染まっていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

次 ▶︎ 近日中
前 ▶︎ 第1話

小説「外異魔のツドイ」
 原案:KC
 小説:ヌゥ

Twitter
 外異魔のツドイ
 KC

※小説「外異魔のツドイ」はフィクションです。
実在の人物や団体などとは一切関係ありません。