ミスコン画像

従来のミス藝大は、美というテーマのもと男女問わず学生が参加し、美というテーマに疑問を投げ続けてきました。ミスという言葉が美と結びつくところに19世紀以前の古い美学的伝統の反響を見ますが(天才は男性に限定され女性は美を体現しインスピレーションを与えるミューズという考え方で、現在でも荒木経惟を巡るハラスメントやMeToo運動などにその残響が見えるでしょう)美というテーマを解体して行く方向性は現代のアートがここ数十年扱ってきたテーマと軌を一つにするもので大変興味深いものでした。

それはまた東京藝術大学というアートの先端を担うべき学校が、問題意識を忘れないという宣言でもありました。忘れてはならないのは、世の中に多数存在する抑圧的な構図において、ミス藝大はそれに対する部分的な対抗であり、反抗の場でもあったということです。
 
しかし、一般的な「ミスコン」はこうした考えとは大きく異なるものです。内面の品性と言った言葉はこれまで家父長制の中で女性を抑圧するために度々使われて来た言葉でした。現代の芸術はそうした社会的な問題の解体の役目を大いに果たして来た側面も多いのですが、一般的な「ミスコン」はそうした流れに反するものです。作品として作り上げられた美を評価することと、それと関わらない外面を評価すること、そしてその内面性を外面と結ぶルッキズムも一般的な「ミスコン」の大きな問題点であり、従来のミス藝大の精神と大きく反する点です。

一般的な「ミスコン」は、女性を対象にしたイベントでありこうした基準を女性にだけ課すものです。なぜこのような基準が女性にだけ課されるのでしょう?プラトンに至るまで美の内容を規定することは、芸術と芸術をめぐる議論の大きな役割でした。一般的な「ミスコン」は女性の品性という曖昧なものを美と結びつける宣言として読めますが、これは19世紀的な発想と言えます。内面の品性という曖昧なワードで内面までおも女性の審査の対象にする、これはロランバルト以降の芸術観と大きく異なります。
 
そして何より私たち女性の生徒が芸術を学び、芸術家として活動できるのは、まさに一般的な「ミスコン」のような発想を否定することが部分的であれ出来たからです。
女性とその内面をある美の鋳型に当てはめて、それを美のミューズとして、受動的なインスピレーションの元とする考え。
先述の通り、こうした発想は荒木経惟をめぐる性差別の問題と通底しています。
 
これは私たち芸術にたずさわる人間として決して看過できない問題でしょう。これは私たちの問題なのです。