お寿司とチーズケーキ。

この経験はいまだに鮮明に記憶に残っている、個人的な「セクハラフォルダ」のメインファイルだ。かなり昔のことなのに「セクハラ」のキーワードを聞くと昨日のことのように思い出される。

大学を卒業して入社三カ月も経ったころ、そろそろ終業時間という頃に課内の回覧板が回ってきた。新入社員は7名ほどいたが、シマごとに配属されたので、その部署に新入社員は私一人だった。回覧板には書類が数枚挟まれていて、一番下には黄色のポストイットが見えた。新人への回覧板はいちばん最後に廻ってくるから、上司の注意コメントが書いてあるのだろうとポストイットをはがした。

「今週の金曜日ですが、空いていますか?」

右下には副課長の名前が書かれていたのだった。当時、その部署は花形ということもあり、課だけでも50人近くいて、その副課長といえば一人しかいなかった。確か50代前半だったと思う。
背の高い白髪の多いロマンスグレーという雰囲気のそんなオジサマだった。

まだ若かったが、これにホイホイついていくと、ややこしそうなことが起きそうだということは何となく察知していた。さて、どうしたものか。
新入社員が副課長のお誘いをいったいどうやって上手に断ればいいのか、そもそも誰に相談すればいいのかもわからない。

そして、あっという間に当日の金曜日がやってきた。「金曜日なのでお店を予約するから食べたいものを言ってごらん」と、いやらしいほほえみと共に、その後も時間と場所の連絡が順番にポストイットで送られてきた。

副課長が指定してきたお店は、駅から少し距離のあるお寿司屋さんだった。今ならすべて読める。
駅から徒歩15分という微妙な距離感のあるお店を選択した副課長の下心だ。
お店に入ると、すでにビールを飲んでほろ酔いの副課長は私の姿を見つけると、
「おぉ~来たね」と嬉しそうにした後、「えっ…」と目を丸くすることになる。

私は同期の新入社員全員に声をかけたのだ。
総勢7名の20代女子がお店に入ると、そのお寿司屋さんは一気に華やかになった。
それはそうだ。若者の行くようなお寿司屋さんではないのだから。
事前に彼女たちにはすべて話していたから、ここはお灸を据える意味もあり、しっかりご馳走になりましょう!と全員で決めていた。
20代女子の食欲はすごい。しかもデートでないだけに誰も遠慮せずにしっかり食べる。
50代の上司が新入社員の女子たちにお寿司をご馳走する、何とまぁ素敵なシーンだったことか。
お会計の時に「ツケでお願いします」の副課長のささやくような声が聞こえてきたが、私たちは何も聞こえなかったふりをして、二次会に行きましょう!と副課長に声をかけた。

もう一押し必要だ。誰も言葉にしなかったけど、皆そう思っていた。7名のうち、お酒を飲めるのは一人だけだったので、全然飲み足りない副課長をよそに二次会はチーズケーキで有名なカフェに行くことになった。そのお店のカフェオレは高くて有名だったから、私たちはみんなカフェオレとチーズケーキを注文した。

いやはや、かなり高くついたことだろう。

そして週明けの月曜日の朝、私たち7名は全員で副課長のデスクに向かった。揃いも揃って一斉に副課長にお礼を言う場面で、みな何事かと興味津々で副課長と新入社員を見ていた。

「ほう。新入社員の女子全員を寿司屋に連れて行くとは。さすがやな」

と、課長は右眉を上げ、明らかに誉めてはいないトーンで副課長に声をかけた。

その半年後、副課長は異動になり、少なくともその部署でセクハラを受けることはなかった。

しかし、新入社員は7名いたのに、なぜ自分に声がかけられたのか。今ならわかる。
その頃、私はROPEのスーツをよく着ていたのだが、同僚はもっと原色の派手なスーツだったり、
もっとカジュアルな人もいたりで、いわゆるフツーの典型的OLスタイルは私一人しかいなかった。
ヘアスタイルもロングで、小柄で、スーツもおとなしめ、とにかくどこを切り取っても全身フツーのお嬢さんだったのだ。

フツーというのはとにかく安心感を与える。
万が一トラブっても、間違っても自分に立ち向かってくるようなタイプではなく、泣き寝入りしそうな、おとなしそうな人を選んだつもりだっただろう。

副課長、君の選択は間違ってたんだよ。

観音屋のチーズケーキ、久しぶりに買いに行こう。

温かいお気持ち、ありがとうございます。 そんな優しい貴方の1日はきっと素敵なものになるでしょう。