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ハケンの人:還暦バージョン。

会社ではだいたいどの部署も派遣社員の方に事務処理を手伝ってもらっている。数ある派遣会社の中でどの会社に決めるのかは総務だが、来てもらう人を決めるのはその部署のトップ。各部署で求められる人材の理想像は微妙に違うので、そのトップが部署のカラーを見て決める。

ところが、たまに社内幹部の「お知り合い」の方がやってくる。いわゆるコネ採用で、派遣会社に登録しても自分の希望の場所や職種ですぐに見つかるとは限らないから、この「お知り合い」ルートだとある程度バックグラウンドが分かっていることもあり、時間がない時などお互いにとって効率が良い。例えば、〇〇部長の親戚の姪とか、元部下の友達とか。

ここで派遣会社の流れを簡単に説明をすると、求職者はまず派遣会社に登録する。過去に経験した職種や業種、希望年収や希望のシフトなどを入れ、派遣会社の営業さんと対面での面接、電話インタビューなどを受ける。例えば子育て世代なら、9:00~16:00というように最初から時短OKのところを希望する。すると、その担当になった営業さんが会社と求職者のマッチングをやってくれ、面接にこぎつける。面接で採用が決まると、求職者は派遣先の会社にルールに沿って、仕事をする。給与や休みについて、求職者は派遣会社としかやりとりをしない。

ある時、かなりの繁忙期に部長の「お知り合い」がやってきた。ちょうど前任者が夫の転勤についていくという急な展開で、引継ぎする間もなく退職したところだったからとても急を要していた。
初日の朝、「前年に離婚したての還暦の女性」ということを自己紹介で彼女は淡々と言われた。
とても大人しい方で、声は小さいもののはっきりものを言われる、会社員生活が長い感じは見てとれた。
その頃は、まだシニア雇用という単語さえなかったから、派遣社員の方が最初から還暦ということは全く一般的ではなく、誰も口には出さなかったけどかなり衝撃的ではあった。
※ちなみに今、60才を過ぎた方が派遣会社から来られるのは珍しくない。

仕事の引継は前任者がしっかり書面にまとめてくれていたから、それを一読してもらい、後は臨機応変にお手伝いしてくださいというような、割とゆるっとしたお仕事だった。
いわゆる、電話番、書類の準備、データ入力、会議の調整などである。社内を案内し、各機器類を見せ、不明な点があれば何でもどうぞと言うと、彼女が真剣な面持ちで言った。

「ゼロックスってなんですか?」

部内の空気が一瞬止まる。コピーやFAXを送ったり、書類をPDF化できる複合機ですよ。
親切な男性がそう言った。すると、彼女は

「FAXって送ったことないんですけど、どうやるんですか?」

こういう自分が使ったことのない機器があるのはどうも納得がいかないという返しをする人が
たまにいる。以前も「私はMacしか使ったことないんで~」とか、「このPC古すぎて無理です~?」とか。メーカーで事務職にMacbookを支給するところなんか、当時はなかったし(今は違うかもしれない)派遣社員に割り当てられるPCは少しバージョンが落ちていたりするので最新のPCが支給されることはあまりない。

というようなことが過去にもあったから、多少のワガママは「あぁそうですよねぇ」と流せる度量もあるはずだったが、このFAXを送ったことがないという衝撃発言はさすがに、これはなかなかの人材が送り込まれてきたな!と思わずにはいられなかった。

翌日からFAXを送る訓練がスタートした。
慣れた作業というものは人間誰しもできるが、初めてする作業はなかなか大変らしかった。
最終的に彼女が一人でFAXを送れるようになったのは、翌月だった。私の所属部署は、当時は「上品路線」だったこともあり、誰一人として
「FAXも送れないオバちゃんをよく雇ったよね…」というようなことは1ミリとて出さなかった。
思うことがあっても、態度にも口にも出さない=相手に悟られないという訓練は、ある意味「京都人養成所」のようだった。

なので、彼女の記憶には「たまたま使ったことのないゼロックスがある会社に派遣社員として少し働いた」そんな当たり障りのない情報だけが残されていると思う。

次に、10人ほど彼女が関係しそうな人物の名前に蛍光ペンを引いた電話番号リストを渡した。そのリストには名前と役職と部署名が記載されていた。
ある日会議から戻ってくると、「〇〇さんから電話ありましたよー。すごいフレンドリーでびっくりしました」とメモの名前を見ると、当社の社長だった。

彼女はお弁当を持ってきていたが、たまに会社の食堂に行きたいというので一緒に行くと、「熟年離婚を実現させる妻の策略」をシリーズ化し、社食に行くたびにその詳細を昼休みいっぱい使って話してくれた。

ある時は、社内の飲み会があるので、派遣社員の方は無料にしますと声をかけると、瞬時に「参加します!」と返信があった。ジェネレーションギャップがあるだろうに、即答で参加表明されるなんてとても柔軟な方なのだなと思っていたが、それは少し違っていた。
当日、テーブルにつくと隣に座った彼女は、開口一番「今月最初に食べるお肉です!今日はお肉を食べに来ました!」と言われ、仕事で急遽来れなくなった人の分も美味しそうに食べていた。

会社員生活は40年近いだけあって、ベテラン風情は全身に出ていたのだけれど、何というかすべてが「帯に短しタスキに長し」と言う感じでご本人の自己評価は高いのだけど、周囲からすれば
ご本人がこの仕事に向いていないとどうか早く気付きますようにと、静かに待っている感じだった。普通なら3ヶ月ごとに派遣会社にお互いの意思確認をしながらの雇用なので、彼女のようなタイプが継続で契約出来る可能性はほとんどなかった。

「この絶対的にダメなところはそんなにないけれど(お仕事レベルは十分ぶっ飛んでいたが)、この人でないとダメというところもない」
という人は、期間限定で来てくれる派遣社員としては一見あたりさわりなくよさそうに思えるが、実は違う。

とびぬけた得意分野があったり、とにかく性格が最高だったりというように突き抜けている人はやはり重宝されるし、近くにいると楽しい。

最近、うちの部に来てくれる派遣社員の離職率が下がったのは、「フツー」を求めなくなったせいかもしれない。

一年後、その女性は体調不良を理由に自主退職された。                   私たちは廊下で部長の顔を見るたびに、    「えらい優秀な人を送り込んでくれはって…」と 京都風に笑いながら言った。

温かいお気持ち、ありがとうございます。 そんな優しい貴方の1日はきっと素敵なものになるでしょう。