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暗証番号。

現代社会において、ログインIDとパスワードを一つも持ってない人はいないのではないかと思う。会社では不定期に新しいシステムが導入され、その都度IDとパスワードを設定する。加えて、同じシステムでもアップグレードしたり、アップデートしたりで、何やらいつも上へ上へと追い立てられている感じが否めない。いつも同じものにしておきたいのだが、前回と前々回使用したパスワードはもう使えません、なんて親切ご丁寧に画面が教えてくれたりするので、その時はテキトーに半角スペースやアンダーバーでごまかしたりする。このテキトーが曲者で、きちんと数字を変更すれば万が一忘れても後で順番に数字を入れると何とかなるのに、この中途半端にこましゃくれたことをしたがために、エラーの連続で3回ミスしたので当分お使いになれませんと画面に言われる。なので、本当は社内システム担当に連絡しないといけないのだけど、いつも直接システムのカスタマーサポートに電話して、再設定を頼んでいる。

国内にある外国の公的機関で少し働いていた時のことだ。入社すると、仕事が関係するフロアのドアの暗証番号を覚えるように言われる。一般的なオフィスのようにあちこち出入りが出来ないようになっていて、その人の業務に関係のない階には行けない仕組みになっていた。

上司のトップは外国人であったが彼らは定期的な異動があるため、実質にオフィスを仕切っていたのはベテランの女性陣だった。その女性陣には派閥があって、新人は雑用も頼めるしとにかく使いやすいのをみんな知っていたので、あの手この手で私を自分の配下に置こうと頑張っていた。私は最終的に、いちばんサバサバしているけれど人情味あふれる先輩を選んで、フットワーク軽くオフィス内をくるくる回っていた。

ある日のこと、その建物に爆弾が仕掛けられたとの情報が入った。今までそんな状況になったことはなかったから、しまった!ヒールでは走れないとか、ブルース・ウィリスが助けに来ないかなとか、頭の中はぐちゃぐちゃに不安いっぱいで、先輩方と一緒に建物からかなり離れたところまで必死に走った。1時間もすると建屋の点検も終わり、無事にオフィスに戻れることになった。

オフィスに戻ると、先輩から私にこの部署に行ってサインをもらってくるように、といつもにはない指示が出された。基本、自分の書類は自分で処理するのだが、私の動揺ぶりを見て先輩は気分転換になりそうな用事をくれたのだ。

さて、違うフロアに行ってサインをもらい、普段会わない大先輩に優しく声を掛けてもらい、自分の階に戻ろうと階段を下りながら、今日はなかなかすごい一日だったなぁとか思いながら。

自分のフロアの裏ドアの暗証番号を押すときに、ふとあれ?何番だっけ?と疑問が出てきた。番号を何回押してもドアはカチャッと開かないのだ。緊急脱出事件でど忘れしてしまったようだった。確かに、このフロアを出る時はサインをもらうドアの番号を口で繰り返しながら行ったので、自分のフロアの番号を押すことがなかったのだ。仕方ない。サインをもらったフロアに戻って、エレベーターで降りさせてもらうことにしよう。

その部屋のドアのところで暗証番号を入れる。開かない。動揺第二弾。そこのドアは防犯、防火扉でとにかく分厚くて、部屋の向こうの人にはノックしても聞こえないようになっていた。つまりこの状況は、階段に閉じ込められたことになる。もはや暗証番号は一つも思い出せなくなっていた。自分のフロアの階段に座って、ひたすら誰かが気付いてくれるのを待っていた。

一時間もしたところ、カチャっとドアが開いた。先輩があまりに私の戻りが遅いのを心配して、サインをもらうフロアに電話したところ、一時間前に部屋を出て行ったと言うので、それなら階段のところにいると推測してくれたのだった。

ここで働いてる人はみんな通る道よ、あなただけじゃないから、と先輩は朗らかに言って机の引き出しからスイスのチョコレートを出し、もう今日は仕事いいからとそのチョコレートをくれた。

翌日、フロアごとの暗証番号を油性ペンで手の甲に書いてる私の手を見て、先輩が楽しそうに笑っていた。

温かいお気持ち、ありがとうございます。 そんな優しい貴方の1日はきっと素敵なものになるでしょう。