【小説】ノキピオ博士、最後の紀行

 旅行につきものの、些末な面倒事はいくつかあった。けれど言葉も通じぬ外国で、ひとまずは無事にホテルを見つけられたのだ。夏の暮れ方だった。窓から外を眺める。摩天楼が林立する背後に、血のような夕日が沈んでいく。書き物机の前に腰かけ、また立ち上がる。なにかを思い出しかけた気がしたのだ。気のせいだった。
 部屋にあるのはシングルサイズのベッドと窓に面した書き物机、備え付けのテレビと冷蔵庫、ドライヤー、ハンガー、消臭スプレー、ズボンプレッサー、バスタオル、フェイスタオル、歯ブラシと歯磨き粉……こまごました備品を並べ立てても詮ないこと。とにかくたいした部屋ではないが、当座の滞在にはこれで充分。満足すると、今度はベッドの端に腰かけた。
 そろそろ食事の時間だ、とノキピオ博士は思った。
 空腹というわけではないが、習慣は習慣、着替えて出かけようとスーツケースのほうを見て、愕然とした。
 わたしのスーツケースではない、とノキピオ博士は思った。
 どうしたことだ、どこで間違えた、なんの手違いだ。新品の黒いスーツケース。たしかにそうだ。しかしケースの表面、いやでも人の目につくあたりに、なんのことかまるでわからない、ほとんど人を小馬鹿にしているとしか思えない、この国の表意文字をプリントしたステッカーが、べったりと貼りつけてある。
 呆然とした様子で、ノキピオ博士はステッカーの文字を注視した。ふたりの人間が、なにやらいかがわしい動作をしているようにみえる。無論のこと、現状を打破するヒントなど見出すべくもない。
 はッ、と我に返ると、スーツケースに飛びついた。暗号式のロックがかかっている。無駄と知りつつ自分の誕生日、妻の誕生日、両親の誕生日、はるか昔に彼が捨てた女たち、はるか昔に彼を捨てた女たちの誕生日を、わなわなと震える指で、思い出せるかぎりでたらめに、大急ぎで、しかし一方、押し間違いのないよう慎重に入力したが、鍵はびくともしない。あたりまえだ。
 なにしろこれはおれのスーツケースではないのだ、とノキピオ博士は思った。こんな冗談があってたまるか。
 憤怒のあまり、力いっぱいスーツケースを蹴りつけた。すると、思いのほか軽々とすっ飛んだスーツケースはそのままの勢いで壁にぶちあたり、凹みを残した。スーツケース自体はびくともしない。
 最近のスーツケースはまったく頑丈なのだ、とノキピオ博士は思った。
 そのとき、壁の向こう側を力任せに殴りつける音がした。同時に、おそらくはノキピオ博士を罵倒するものであろう、男の、もしかすると女の、くぐもった怒鳴り声が聞こえた。外国語である。この国の言葉ともちがう気がした。隣室には外国人が泊っている。いや、それを言うなら、ノキピオ博士にしたって外国人なのである。
 いったんスーツケースから離れ、備えつけの冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを出した。一口含んで、吐いた。胡瓜のような青臭さのする、これは砂糖水である。
 ノキピオ博士は医者から甘いものと酒を控えるよう言われている。本来は甘党の酒好きであって、我慢するにはとんでもない精神力を必要とするのだ。人生も半ばを過ぎた地位ある男が、好物もろくすっぽ口にできない。若者だったころは、両親や教師たちから、忍耐あるのみと言われたものだ。それがどうだろう。二十歳で十我慢していたことが三十歳では二十になり、四十歳では三十、五十歳になったいまでは四十にもなんなんとしている。
 かつてこれほど、とノキピオ博士は思った。人を虚仮にした話ってあるだろうか。
 しかもわたしはウリ科の野菜が大嫌いで、とノキピオ博士が怒りに満ちた思考を更に推し進めようとしたとき、部屋のドアがためらいがちにノックされた。ノキピオ博士の思考は止まった。しかし腹の虫はいまだおさまらない。鼻息荒くずんずんと、大股でドアに近づいていき、ノブに手をかけたところで、はた、と思い当たることがあった。
 以前読んだガイドブックによると、この国ではホテルの外国人客ばかりを好んで餌食にする強盗、強姦魔、誘拐犯、殺人者が殊の外多いということである。彼らは従業員に鼻薬をきかせ、ホテルに侵入すると、従業員のふりをして客の部屋を訪ねる。うかうかとドアを開けでもしたら……。
 が、ノキピオ博士は旅行好きで、出張も多い身分ときている。どこぞでそんな話を読んだのはたしかだが、果たしてそれは間違いなくこの国のガイドブックだったろうか。
 ノキピオ博士は小説も好きだ。おまけに大のガイドブック好きでもあって、暇さえあれば、旅する予定もない国のガイドブックを読んでいるのである。そんな趣味ってあるだろうか。あるのである。
 そしてノキピオ博士の妻は、彼のそんな趣味を「ちょっと変態っぽい」などと奥さん連中の前で揶揄するのであり、そんなことからノキピオ博士は近所ではいささか「風変りな人物」だと思われていた。ノキピオ博士が知ったなら遺憾に思ったことだろう。ノキピオ博士はなにも知らなかった。
 ノキピオ博士の妻は出入りのクリーニング業者と週に一度か二度、夫婦のベッドで関係を持っていた。ノキピオ博士が知ったなら激怒したことだろう。まず間違いなく離縁しただろう。妻と間男のふたりは血を見る羽目になっただろう。ノキピオ博士はなにも知らなかった。
 なにか途方もない、大きな力によってドアがぶち破られ、鶏と羊のマスクをかぶった屈強な二人組の男が押し入ってきた。ノキピオ博士は蹴られた鞠のように転がって、後頭部をしたたか打った。
 血が出たかもしれない、とノキピオ博士は思った。とはいえ、これから、もっと血が流れることになるだろう、とノキピオ博士は思った。それは正しかった。
 鶏のマスクをかぶった男が、建設現場で目にするような大槌を振り上げた。
 案外、一瞬で済んでくれるかもしれない、とノキピオ博士は思った。そうでもなかった。
 ことを終えてから、羊のマスクをかぶった男がナイフを使ってノキピオ博士の鼻を削いだ。手慣れた動作だった。血は、もはやそれほど出なかった。二人組はしばしの間、ノキピオ博士の鼻を投げつけあっては、キャーキャーと、恋人同士のようにはしゃいだ。じっさい、そうなのかもしれない。
 どちらかがコントロールを誤り、ノキピオ博士の鼻はベッドの下に滑っていった。どちらも肩で息をしていた。笑いすぎて涙が出る。マスクをとった。ひとりの男の左目は義眼だった。どちらかが飲みかけの砂糖水を見つけて飲んだ。顔をしかめ、唾を吐く。
 キャッチボールも飽きたな、と義眼の男が言った。
 ああ、そうだな、ともうひとりが言った。
 そして、おたがいのシャツに飛び散った血を見つめた。彼らは外国の映画で俳優がよくそうするように、頭から一息にシャツを脱ぎ、丸め、バスルームに放り込んだ。そうしてクローゼットを開けたが、そこにはハンガーにかかったバスローブと消臭スプレーのほか、なにもなかった。
 ふたりは悪態をつきながらバスルームへ行き、脱ぎ捨てたシャツを着たが、もう一度、今度はズボンも下着も脱いで素裸になると、一緒にシャワーを浴びた。筋骨隆々とした、見るたびにおたがい惚れ惚れしてしまう裸体を、石鹸でよく洗った。義眼の男の背中と、もうひとりの男の右腕には、あのスーツケースに貼られたステッカーとよく似た文字が彫ってあった。
 おおかた、なにか卑猥な意味なんだ、とノキピオ博士なら思ったことだろう。ついでにシャツも洗った。血痕はそれほど目立たなくなった。
 彼らはドライヤーで丹念にシャツを乾かし、着た。そして、ノキピオ博士のスーツケースを持ち去った。厳密にはノキピオ博士のスーツケースではなかったが、結局のところ、彼らには関係のない話である。凶器となったハンマーは置いていった。持ち歩きには、なにしろ不便なのだ。
 犬一匹殺しましたって言って歩いてるようなもんだからな、とひとりが言った。
 来るときだって担いでたんだぜ、ともうひとりが言って、ふたりは笑った。
 ありえねえよな。
 ああ、ありえねえ。更に笑った。
 外はもう暗かった。夜が沈んでいく。ノキピオ博士も沈んでいく。ノキピオ博士の旅も、これで一巻の終わりというわけだった。遠く離れた国で、ノキピオ博士の妻は出入りのクリーニング業者と情事に励んでいた。
 旦那さん、いつ帰るの? と出入りのクリーニング業者が訊いた。
 さあ、でも、しばらくは、とノキピオ博士の妻が言った。
 飲んで帰ろうや、とひとりが言った。
 いいね、ともうひとりが言った。 

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