【小説】小顔の男

 小顔の男である。
 まったくもって、こんなにも、小さい顔があるなんて。プラムくらいのサイズである。だれでも仰天する。とはいえ、まあ、慣れてしまえばどうってこともない。
 要するに、鼻が大きいとか福耳だとか、太っているとか痩せてるとか、だれにでもある特徴のひとつにすぎないわけだ。人の身体的特徴をあげつらい、笑いものにするのはよくない。あたりまえだ。「芋粥」の昔とは時代がちがう。テレビは別だ。テレビの世界では、相変わらず、ごちゃごちゃと、その手の不愉快な言説が渦巻いている。
 ゆえに、私はテレビを観ない。映画も観ない。小説も読まない。他人の不愉快な意見を目にするのがいやなのだ。テレビほどの頻度ではないにせよ、映画や小説の場合でも、そういう意見に触れることは間々ある。それは、ほんとうに、不愉快なのである。彼――というのは小顔の男のことだが――も観ないにちがいない。読まないにちがいない。
 なぜなら、私の顔がもしプラムくらいのサイズで、たまたまつけたテレビか、たまたま観に行った映画か、たまたま開いた小説のなかで、自分と同じくらい小顔の男が笑いものにされていたとする。その場合、私はきわめて不愉快な思いをするだろうし、ともすれば怒りに駆られ、テレビ局か、監督か、作者のもとに乗り込んで、流血沙汰を起こさないともかぎらない。
 だけれど、しょせん、私は私、彼は彼だから、彼のほうではそんなテレビや映画や小説なんかで、だれがなにをどう騒ごうが、委細かまわず、自分のペースを乱すことなく、心穏やかに、ニコニコと人生を謳歌しているかもしれないではないか。
 そうではないかもしれない、と思うこともある。
 私の日課は夕食後のそぞろ歩きである。だいたい晩の八時から九時までは、近所の坂を上ったり下りたり、公園のベンチに腰かけたり立ち上がったりしている。そんなとき、彼がひとりアパートのベランダで、たばこを吸っているのをよく見かける。
 ちょっと待て、おまえが彼を観察できるのは、アパートの前を通る数秒間のはず。してみれば、それがたしかに小顔の男かどうか、胸を張って言い切ることはできないじゃないか、という人もある。馬鹿な。余裕で言い切れる。
 こんなに小さい顔の男を、どうして見間違えようか? なにしろ、さしてよくもない私の視力では、三階のベランダにたたずむ彼の目鼻立ちすら見分けられないのだ。
 ほんとに小さい顔だから、たばこを吸うにも難儀している。一本咥えたら、もう目一杯。古くからある宴会芸で、咥えたたばこを口の中に入れて火を消したり消さなかったりするのがあるけれど、到底、そんな芸当は無理。私だってできやしない。できたところで、それがなんだっていうんだ?
 でも結局のところ、こんなのは全部私の意見に過ぎず、彼のほうでは、どんなにかたばこ芸の奥義を極めてやりたい、それで宴席の人気者になってやりたい、と思っているかもしれないではないか?
 夜な夜な、たばこ芸の練習に、しかも自宅のベランダで励んだところで、だれの害になるわけでもなさそうだが、しかし自分が家に帰り、シャワーを浴び、ベッドに入ったあとも、彼が人知れずたばこ芸の練習なんかをしていると思うと、胸をしめつけられる心地がする。
 私は彼と話したことがない。いまだその機会がない。これからも、あるかどうかわからない。きっとないだろう。ないにちがいない。ありえない。知り合いでもなんでもないのだ。知り合いの知り合いですらない。そんなふたりが、言葉を交わすなんて。
 私たちは話したり、おたがいの目を見て親愛の情を交わし合ったり、一緒に酒を飲んだりすることなく、すこしずつ、年老いていくだろう。彼の顔に刻まれる皺の数は年々増え続け、プラムというよりは、乾燥したプラムのようになるだろう。私もまた、彼と同じように年を経て、皺が増え、腰が曲がり、水気が失せ、人間がどんどん縮小していくようだ。それでも顔の小ささにかけては、彼の足元にも及ばない。
 彼はこんな顔の小さいじいさんは見たことがない、と言われるような老人になり、一方、私はどこにでもいる特徴のない老人になるだろう。
 しかし、そんな私であっても、不意の発作とか、餅をのどに詰まらせるとかして、いよいよお陀仏、これにて全巻の終わりとなったとき、どこかのだれかが、鼻の穴に綿を詰められた私の顔をとっくりと眺め、こいつはまったく感嘆の念に堪えぬといった様子で、顔を振り振り、こうして見ると、この人はずいぶん小さい顔をしているねえ、と言ってくれる、そんなことがないともかぎらない。そうであったらいいのに、と私は思うのだ。

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