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何がわからないのかすら分からない状態を超えられる人・超えられない人

たまにありませんか?

自分が何がわからないのかすら分かってなくてとっかかりすらつかめないってこと。私自身は、職業柄数年に一度そんな事が起こります。例えば、新しいプログラミング言語を使うぞ、という時に、それを使ってちょっとしたサービスを作ろうと考えたとします。そこには今まで使ったことのない思想が盛り込まれており、参照するテキストにはさも当たり前かのように色々なことが書いてある訳です。これまで使っていた領域では触れたことのない世界、しかも訳が分からない度数が高ければ高いほど、大きな世界のど真ん中に一人ぽつんと取り残された感覚になります。

笑ってしまうほど分からないときは、検索することすら叶いません。何を調べて良いのかの取っ掛かりすら掴めないからです。こういったときの絶望感たるや。俺はなんて無能なんだ…と頭を抱えながら、とはいってもいつか世界が見えるようになるだろうと思い込んで、脳みそにそこにあるテキストを刻み込む日々が続くのです。

続編を書きました(2023.4.26)

なにもわからないのはストレスとしては大きい

このnote↓にも書いたのですが、私自身は弊社リバネスの社員面談に立ち会ってきました。7年間14回述べにして745人のプレゼンテーションを目にしてきた中で、それなりの人数がこんな状態に陥るのを見てきました。

よくあるパターンは、新入社員として入ってきて、先輩が与えてくれる仕事をホイホイとこなし、一人前という等級まで一直線に来た場合です。それまでは先輩が教えてくれたレールの上を走ればよかったのが、例えば新しい企画を任されたり、チームを任されたり、事業部を任されたり、執行役員に任命されたり…と様々なロールにおいて自分の前に道がないことに気付く訳です。

リバネスという組織の形を、仮に球体だとします。新人のときは、この球体の中のどこかに自分がいるのですが、その周りには様々な知見が蓄積されており、適切にコミュニケーションが取れれば答えを得ることは難しくありません。しかし、このなにもわからないという状態は、球体の表面まで来た時に起こります。誰も答えを持っていない、そんなエッジにおいて自分で球体の上に土を盛り、より大きなチームになるために試行錯誤することになります。

なにもわからない時に潰れがちな人

答えを欲しがる人がまずやられていきます。誰も教えてくれない訳ですから、これまでとは行動がガラッと変わらざるを得ません。ただ、そのステージの変更に気付かずにいると、なんでこんなに出来ないんだ自分は…となりがちです。

次に、言語化能力が低い人がやられがちです。自分はこのままじゃいけないと思っているというような話になりがちではあるのですが、なぜいけないのか、どうなりたいのか、そのためにどうすべきかという事が考えられていなかったりします。自分の思考を分解するのが苦手なのかもしれません。確かに急に考えられる変数が無限に増えていく訳ですから、それこそ無限に思考に時間をかけることが出来てしまいます。漠然とした目標設計が、漠然としたプレッシャーとなりのしかかります。こういう人で乗り越えられている人はあまり見たことがありません。

自分に対する期待値が高すぎる人も自滅する傾向があります。とにかく今の状態ではなく、もっとスーパーでハイパーな完璧な自分を求めるパターンです。理想が高いため自己評価が極端に低くなりがちです。しかし、聞いてみるとロールモデルになるような人物像がなかったりするのです。虚像と自分を比べるしかないため、何をやっても満足がいきません。客観視ができないので、例えば組織において重要な仕事をやっていたとしても自分が評価しないので他人の目にもうつらないというループに陥り、勝手に腐ってしまうということが起こり得ます。

自分が低いと思う目標を掲げたくない人も苦労します。なにもわからないというときは、とにかく取っ掛かりの一歩目を探すために小さな事をとにかくたくさん脳みそに叩き込み行動するということが求められると私は思っているのですが、その一番単純だけど大変なところを行動目標として掲げることはしたくなさそうです。

どうやって「完全に理解した」を目指すのか

最初に結論を書きますが、潰れないことです。これだけを担保しておけば絶対にどこかにたどり着きます。

0地点においては、検索キーワードすら分からないというときがありますが、そんなときは色んな言葉を駆使して、その領域の中心に一歩ずつ前進していくしかありません。何時間も同じことを繰り返し、さっき読んだよこれみたいな情報に何度も突き当たり、袋小路を行ったり来たりしていくうちに、なんとなく大事なキーワードが見えてくるものです。不思議と脳みそが情報を処理して世界が見えるようになってくる。本当に不思議ですが。

それまでは、自分が出来なくても腐らずに、自分が出来ることを続けるしかない。どんなに初歩的な事でもまずはやってみて、やり続けるうちに使えるようになり、更にその先に使いこなせるようになる日が来る。

それが正しい道なのか間違った道なのかは、やっているうちに見えてくる。逆に言えば、やらない人には何も見えないままになってしまう。

根性論みたいに読めてしまうかもしれませんが、根性はさほど要らないと思います。潰れなければ良いというのは気持ちが折れなければ良いという事ですから。なぜ自分の心が折れてしまうのか、自分がどのように考えがちなのかという自分の特性と向き合ってうまくいなせるようになれば良い。

私自身、こういう状態になった時に「俺はなんて頭が悪いんだ…」と思うことは少なくありません。もっと天才に生まれていればこんなのチョロかったはずなのに。と思いながら、初心者向け情報を読み込むなんてことを数年似一度やっています。

何がわからないかすら分からない、そんな時は、自分が今やってることを全部記録する位がちょうど良いでしょう。なぜって、そういう時はこういう気持ちになりがちだからです。自分の目標地点が遠ければ遠いほど、今日行った小さな一歩がちっぽけに見えてしまう。

試行錯誤は本当に大変で、前進したと思えない日々はこころを蝕みます。ただ、それも自分の心次第なんですよ。自分がやったということは成果です。それが結果につながらなかったということが成果の一つなのです。自分の行った活動のプロセスの価値を0にしないであげてほしい。

こうやって無茶苦茶頑張った先に、もしかしたら小さな灯りが見えるかもしれません。小さな一歩を積み重ねることを怖がらない事が重要です。

ある日起きたら超人に転生していることは残念ながらありません。自分が漠然と思い描いているスーパーマンは、どうあがいても今の自分と地続きなのですから、淡々と歩を進めていくしかないのです。これはどんなに偉い人でも同じなはずですよ。

参考


noteにはこれまでの経験を綴っていこうかと思います。サポートによって思い出すモチベーションが上がるかもしれない。いや、上がるはずです。