見出し画像

「異性装の日本史」を見てきたメモ

パンフレットなどはドラァグ・クイーンの写真が大きく出されているので、どういう方向性の展示なのかおっかなびっくりしてたけど、それは最後のほうの一部で、全体としては日本史全体を通して男装、女装がどのように存在してきたかを、かなりフラットな視点で集めている、ように見えた。

異性装というのは歴史を通して常に大衆を惹き付ける魅力のある文化であり、また、同時に性別に対して社会的に与えられる役割や力というものを借り受けるために本人の性的自認や性的指向に関係なくそうした営みが常にあった、ということがよくわかる展示になっていた。

展示のビジュアルというよりは、テキストから得られる情報がかなり多かったように思われる。(逆に、テキストがないと、それぞれが「男装なのか、女装なのか、男性なのか、女性なのか」といったコンテキストをすぐに読み解くのは難しい。とくに浮世絵などの場合)

自分の認識が変わったのは、こうした異性装が社会的に「よろしくないこと」とされて抑圧されはじめたのはむしろ最近で、文明開化して欧米から遅れをとるまいと価値観を輸入した時にいろんな風俗と一緒に「社会的に大っぴらにしてはいけないもの」として取り締まられるようになった点。

もちろん、それまでも社会の風当たりが強くあったりはしたのだろうけど、例えばお寺の子が男娼として生きていたり、天皇などの男系を必要とする存在が男装をしていたり、特に社会的な位が高いものほど黙認されていたところが多いようだった。(そして、「人倫を乱す」などと規制が始まるのはそうした力を持たない庶民の方からであった)

いかに異性装が社会的に「大っぴらにしてはいけない」とされたとしても、キャラクターや物語としての魅力は時を超えるほど強く、ヤマトタケルノミコトをはじめ、多くの人物がその存在の「アンバランスさ」を保ちながら語り継がれていることはまさに人間社会がそこに本質的な魅力を感じていたことを証明している。

以下、個人的な考え。

自分は異性装をしているという感覚はないけど(異性=女性に見られよう、という目的があるわけではないので)、美しく見られたいとは思っており、それが結果的に女性的な格好に近かったり、女性向けに作られる服や化粧といったものが必要になったりする。

むしろ、美しくなること自体が、「美しさ=女性に備わるもの」と認知されているために女性的とカテゴライズされる、ような感覚がある(これも多少古い考えかもしれない)。

異性装の展示を通して、そうした美しさの表象が歴史的にはどのように性別と紐付けられていたのかを知りたかった。実際に、能や歌舞伎を出すまでもなく、男娼や女装少年などは美しさの力を借りるための社会的な装備として機能していた。

男装も同様に、権力を引き継ぐためであったり、あるいは宮仕えに潜り込むためであったり(結果女性であることがバレて帝と結ばれるみたいな物語だったけど)、社会的な装備として機能していた。

そうした装いの力は、性風俗のような場合も含めて、何らかの自己表現や社会運動などより以前に、生きるための基本的な手段なのだということが展示を通して最もよく伝わってきた。

そしてそれは、男女どちらかが一方的に強いられるようなものでもない。

女性の権力という面では、男性ばかりが認められてきた社会構造を変革することは意味があるし、男装をしなくてはそれが叶わないという世界よりは多様な姿が認められてほしい。

一方で、男性の魅力という面では、女性ばかりが美しさの表象を独占してきた社会構造を変革することは意味があると思うし、女装というカテゴリに当てはまらずとも美しい男性が存在できるようになってほしい。

性的消費、などという言葉が女性蔑視の代名詞のように用いられる昨今ではあるが、消費には常に消費者=お金を出す者がいるわけで、つまり「価値がある」という大変に大きなメリットを無視してデメリットだけを無くそうとする考えには疑問を抱いていた。これは一つのトレードオフであり、女性が消費されることは危険である一方で、男性からすると欲しくても得難い価値であることと表裏一体だ。

しかし同時に、「元々男性・女性が担っていた形」という印象や史実を消し去るほどフラットな世界になりえるのかというと、やはり難しいのではないかとも思う。

社会的な性差はなにも社会的な支配者が勝手に決めたことばかりではなく(一部そうした間違いもあるだろうけど)、本質的には、女性が妊娠してその間男性が狩りをして、という利害が一致した役割をこなすために進化し、それは現代においても未来においても変えることのできない性差である。

女性が動けなくなった時もしっかりと支えることができる姿かたちが「男性的」とされ、社会に出て活躍する女性には結局そうした「男性的」な生き方や姿かたちが求められてしまい、また同様に、(多妻を相手にできる性質を持つ)男性が持っている欲求を無限に利用するように進化した美しい姿かたちが「女性的」とされ、美しさを纏おうとする男性が結局そのように「女性的」であると見られることは、おそらく避けて通れないのではないか。

そもそも、「男性的」「女性的」という概念の存在自体が、性別に元来社会的な力が規定されていることを示し続けるのではないか。

(欧米で広がっているHe/Him, She/Herを選べるといったことだって、それ自体が「私はHe/Sheの元来持つ特徴を借り受けたい」という表明であって、逆説的に性別の本質的な違いを浮き彫りにしてないか、とも思う。Heだから男性的に扱って良いとか、Sheだから女性的に扱うべきとか、そんなのはそもそも関係ない、という扱いをできれば良いのだけど)

というわけで、私としては「性別に元来規定されている社会的な役割・力」というものは無理に拭い去るものではなく、それらの存在を認めた上で、必要に応じて誰でも異性装などによってそれを借り受けることができ、「生きる手段」の選択肢が増やせるのが良いんじゃないかな、と思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?