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パリ・オペラ座の日々1993~1994:  序文 ②旅行なのか、移住なのか

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序文①はこちら↓

1992年の秋、3年間勤めた会社を辞めて家業の石膏像工房を継ごうかと考え始めました。93年の春までに会社を辞めて、実家での仕事を開始する前にバブル時代に貯めた貯金を使って長期間の海外旅行に出掛けよう。その意志を石膏像工房を経営する両親に伝えたところ、ある程度の期間の猶予はよかろうという返事でした。

妻と僕はともに27才くらい。それまでに何度か経験した海外旅行での「不完全燃焼」感が根底にありました。当時の僕たちは、米国や南の島のリゾートよりも、圧倒的にヨーロッパへの憧れが強く、歴史、美術、街並みをじっくり味わってみたい。そのためには10日前後の旅程なのに、往復の機内で3日くらいを消化してしまう一般的なスタイルの旅ではらちが明かないのではないか。そんな思いがありました。石膏像工房での仕事を開始するまでの猶予期間で、2か月~3か月かけてヨーロッパ各国をゆっくり巡ろうというのが当初の計画でした。

実家の石膏像工房の仕事は、主に西洋古代彫刻の複製品を作る仕事です。それらのオリジナル作品の多くはフランス、イタリア、ドイツ、英国、ギリシャなどの美術館の収蔵品です。本格的に石膏像職人として働き始める前に、これらのオリジナル彫像をしっかりと鑑賞し知識を深めるというのは、旅の目的として自然なものでした。

そしてこの旅にはもうひとつの重要なミッションがありました。

それはクラッシックバレエの舞台を観ること。

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(パリ・オペラ座の本拠地ガルニエ宮)

元々は妻の趣味でした。本格的にバレリーナを目指すような経験をしたことはなかったものの、幼少からずっと踊りには興味を持ち続けていて、たくさんの舞台を観ていました。僕は一切知識が無かったのですが、妻と知り合ってから何度か本物のバレエの舞台を観るうちに、だんだんとその魅力に惹かれるようになりました。レーザーディスクが普及期に入っていた時期で、手に入るものは片っ端から見るような日々でした。なかでもグリゴローヴィッチが牽引していたボリショイバレエ団と、パリのオペラ座バレエ団は別格の輝きがあり憧れていました。

ところが東京でこういった海外の一流バレエ団の公演を見ようとすると、チケットがバカ高い!たくさんの団員とスタッフで来日するわけで仕方のないことですが、何年かに一度の来日公演であっても、複数回の公演チケットを購入することは難しい価格です。もしヨーロッパに長期間滞在するのであれば、本拠地の劇場でバレエ、オペラ、クラッシック音楽の公演を存分に見れるのではないかと目論んだのです。

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(ジョン・ノイマイヤー振り付けのくるみ割り人形)


ともあれ、1992年の年末には計画は徐々に具体的なものになってきました。
考えるべき課題は山のようにありました。まずスムーズな退職。それも夫婦同時にお互いの職場を整理して去るわけで、それぞれに煩雑な手続きを進めめる必要がありました。

そして「数か月旅に出る」という、この一見シンプルな計画が実はとてつもなく複雑で難しい行動であるということが徐々に明らかになってきました。

要はお金です。金銭的な面を無視できるのであれば話は簡単です。現在住んでいる住まいはそのまま家賃を払い続けて放置しておけばよいし(持ち家なら一切問題無し!)、海外で滞在するホテル代、移動の費用もじゃんじゃん使えばいい。でも実際には僕らが当時積み上げていた貯蓄なんて本当に僅かなもので、効率の良い使い方をしなければ一瞬で溶けてしまうような金額でした。

ここからパズルを解くような長期旅行計画の話し合いがスタートしました。インターネットなど一切無い時代ですので、細々とした情報収集能力で集めた活字情報を頼りに深夜まで二人で延々と話し合いました。

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(↑計画の初期段階のメモ。4月に出発して、まずは英国・アイルランドを3週間まわって、その後大陸側へ。その後3か月かけて17か国を巡って・・・って、これ絶対無理!こんなことしてたら倒れちゃう!!笑)

旅行しつつ日本の家賃を払い続けるのは無理があるので、
①数か月であっても日本のマンションの部屋は退去し、いったん日本では「家無し」の身になる。
②家財道具は処分しきれないものはお互いの実家に移送。
③そもそも3か月も連続してホテル暮らしなんて耐えられるのか?

検討課題は次々と湧き上がって来て、最終的にいちばん気になりだしたのは③の3か月も旅するのって辛くない?ということ。どこか拠点を決めて、そこに短期アパート的なものを借りて生活し、そこから適宜旅行に出かけるというのはどうだろう?

ヨーロッパ各国の中で拠点とするのならフランス・パリとすぐに決まりました。なんといってもパリはオペラ座バレエ団の本拠地。そして石膏像の世界と深く関係するルーブル美術館とムラージュ複製工房があります。英国・ロンドンも考えましたが、こちらは学生時代にすでに2週間程度の滞在経験があり(といってもほとんどロンドンだけで何も知らないに等しい状態でしたが…)、パリの方が圧倒的に魅力を感じていました。

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(”るるぶ”!笑 なんのかんの言って、パリをうろつくだけならこのガイドがシンプルで一番役に立った)


ヨーロッパを放浪するように旅行するという考えから、徐々に「移住」というイメージに変化していきました。ちゃんとした住まいを決めるのなら、学校に通ったりできないだろうか?少しでも働くことができるならより長い期間滞在できるのではないか?まったく若気の至りで恥ずかしいのですが、根本的な旅のイメージがグラグラしていて、あれもこれも可能性を検討しては悩むというのをしばらく繰り返していました。

それでも1993年の年初には、金銭的な部分との折り合いを考慮しながら、だんだんとイメージが固まってきました。具体的な渡航費用、滞在費用、移動のための費用、生活費、不在期間中の日本での体制などを細かくシュミレーションしてみたところ、一か所に定住して倹約して生活するのなら、夫婦二人で一年間は滞在できるだろうという結論に至りました。なんとなくの予感として、自分たちの人生でこのタイミングを逃したら二度と同じようなチャンスは巡って来ないような気がして、限度額ギリギリ(!?)の「賭け」に打って出ることにしました。

①アパートを借りて一年間パリに住む。
②学校へ通ったり、働くことはしない。とにかく楽しむことを優先。
②帰国後の事は、後は野となれ山となれ…。

「数か月ヨーロッパを放浪する」計画は、やがて「一年間パリでプー太郎」へと姿を変えたのでした。

つづく。

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