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二躯の思索集


著作、岩満陽平

世界を探究するという、小利口な感覚の若者と、その問題に対し、適当に大根を茹でるくらいの認識しかしない年寄りは、どちらが利口だろうか。
世界に対し、上下左右という問題を提示したら、若者はそれについて、論理的だったり、神秘的だったり、上下左右の問題に対する、素直な感覚で考えるだろう。
じゃあ年寄りはどうかと言えば、上下左右以上のものは何も探索は広がらないのである。広がるにしても、殆ど、右に鳥がいるな、左はいないな、程度の思考でしか広がりはしないのだ。

若者の突飛な発想で、将来の夢などと言ったところで、それは叶うかもしれない可能性はある、だからこそ行動すれば、期待値は高い。そこで行動したことによる知恵はどんどん膨れるだろう。では、ある程度年齢の高い人が将来の夢と言った場合それはどうなるであろうか。もう殆ど打算である、叶うわけないからこそ、持つことができる、一つの指針でしかない。それを本気で叶える気がないからこそ、持っている将来の夢、そんなに素直ではないから、持つだけ持つでいいのだと思う。

恋愛というのは実にパラノイアだ、目の前のそいつへの幻想に恋している。
だから、自分の幻想と辻褄が合わなくなった時、百年の恋も冷めるのだ。
根倉で、男一匹何かを探している姿がかっこよかった。見た目が僕の世界にぴったりだったからかっこよかった。痩せていたから好きだった。
人は、まあある程度変わってしまったくらいなら、なんとかしらけつつもやっぱり好きでいられる。だけど、もうあまりにも変わってしまうと、良かろうが悪かろうが、もう好きでいることはできなくなる。
人は意味が分からないからこそ頑張る気になる。なんでもかんでも説明されてしまうと、分かることは増えに増えるのに、やる気の対象に対して幻滅してしまうのだ。
できないからこそ、できるようになりたい、できますよ、と言われてしまうと、もういいわ、になる。できないことができるようになる、という物語に幻想を抱いているからやる気がでる。




やりすぎ注意報な悟り

努力などというものを、極限までしたことはあるか。ある種やりすぎ注意報がでるほど努力する日があったとしよう。自分は三時間しか勉強したことがないのに、そっから六時間勉強したとする。もう無理だとやめようか、と思うとこから、またさらに三時間勉強したら、行いが悟りを開く瞬間があるのだ。振り返ると、あまりにもやりすぎた自分が見えるのだ。このやりすぎた自分は、世界を生きていく上で、まず消えることも折れることもない、確信に変わるのである。何が自分に襲いかかってきても、その確信に変わったその行いは、自分の中で確固たる芯になるのだ。

人が生きている意味がないだとか、空虚なもんだとか、何やったっていずれは死ぬだとか言って、適当に生きてたら、甘えてたら、生きてる意味がない。生きてるからこそ、極限まで物事をして、仏教なんかが言うような悟りではなく、極限極めた、自分を見つける、それを成し遂げた自分を楽しむ悟りを得てほしいと思う。

自分の脳みそ

人のいうことは、なんとでも言う。しかも殆ど子供じみたほんとか嘘かもよく分からんような情けないことをなんとでも言う。その齢まで生きててそんな初歩みたいなことよく言うなみたいなのもある。自分が思うことが一番大事だ。自分が思うことをやる自分が思うことだけを実行すればいい。Youtubeのあいつらは十分の一しか説明していない。全部分かるには本を読むしかない。
世界という、広大なものを与えられてんだ、自分次第でなんでもできるだろう。世界を活かせ!


過去を思い出した、あの日、あの頃、過去はもうない、前しかなかった。

岩満陽平


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