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どうでもいいことを発言できる朝礼

最近、ある団体のことが超気になっている。京都にある障害者福祉のNPO法人「スウィング」のことだ。最近、EテレのハートネットTV「あがるアート」で紹介されたのがきっかけである。

その活動やメンバーがとにかく常識の枠を大きくはみ出していて、自由すぎるのだ。戦隊モノの格好(なぜか全員ブルー!)をして清掃活動を行う「ゴミコロレンジャー」とか、めちゃくちゃ複雑な京都のバス路線網を丸暗記している二人が、バス停前で余計なお世話的に行き先を案内しちゃう「京都人力交通案内」も面白いのだけれど、いちばん気に入ったのは、「本当にどうでもいいこと」をみんなが発言できる朝礼である。

何を発言するのかといえば、たとえば昨日の晩ご飯のおかずとか、昨日のスウィングからの帰り方(毎日いっしょ)とか、週末にはこんな予定がある(週末が来るまで毎日言う)といったものである。めっちゃ発言のハードル下がるよね、こういうの聞くと。

理事長の木ノ戸昌幸さんいわく、朝礼が「どうでもよくないこと」しかいえない場であったなら、そこはどうでもよくないことしか発言できない息苦しい場になり、本当にどうでもいいことしか言えない人の声は圧殺されてしまうことになるからなんだそうだ。それは本当に恐ろしいことで、「全然どうでもよくない」と彼は言う。

いや、本当にそうだ。私自身のことを考えてみても、自分のしょーもない部分はなるべく他人に見せないのが賢い処世術だと思ってしまっている節がある。嫌がられないように、呆れられないように、仕事を干されないように。でもその一方で、何をしてもたいがい許される場というものがなければ安心して生きていけないという思いや、それを切実に求める願望もある。

人間なんて、他人の前でカッコつけていても、だいたいはしょーもない存在だ。人にはちょっと見せられないような変な癖や行動なんていくらでもある。しかし世の中を見渡してみれば、「どうでもいいこと」が許される場は少ない。有能さを求められ、生産性を求められ、無駄のない行動が求められ、無駄のない発言が求められる。経済にとってはそれが都合いいんだろうが、人間ってそんな精密機械のような無駄のない存在だったっけか?

かく言う私も、こんな文章を書くときでさえ、なるべく「どうでもよくない」ものを書こうなんてしているのである。30分でパパッと書いちまおうなんて思って始めても、推敲推敲推敲でがっちり1時間はパソコンと向き合うことになるのだ。

長くなるとまた次が嫌になるのでこの辺で切り上げようと思うが、理事長の木ノ戸さんが2019年に本を出している。それを知って活字人間の私が手を出さないはずがない。タイトルは『まともがゆれる〜常識をやめる「スウィング」の実験』だ。読み出すともう、とにかく各章各章がおもしろくて、笑いっぱなしである。この方、文才もなかなかのものだけど、ユーモアのセンスも半端ないね。

本好きの私が自信を持っておすすめできる一冊です。

そしてまた私も、木ノ戸さんに感化されて「どうでもよくない」文章を書こうとしてしまうのだ。いや、それが良くないんだっての。

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