自由という不自由
小学校の担任、野田先生。
背が低く、真面目で一生懸命。生徒想いで優しい中年の女性の先生でした。
ある日の朝の会で先生が
「8時半からはじまる朝の会の前に早く来て校庭を走るといいよ!走るかどうかは、自由だけど頭もスッキリするし色んな運動の基本になるし。」
それから朝の会で野田先生は
「今日は何周走りましたか?一周の人!2周の人!手を挙げて!頑張ったね。
それ以上の人!何周走ったの?
すごいねー!」みたいな時間をたまに取るようになったのです。
ある日僕は校庭を20周走って、先生に褒めてもらいました。
そこから、なんとなく毎日のように校庭を「走らなくてはいけなく」なってしまいました。
苦しいというか、違和感のある思い出として今も記憶に残っています。
「自由という不自由」
この言葉をはじめて聞いたのは中学生や高校生を集めては対話の合宿を主催している方からでした。
今の若い子どもたちはコロナやSNSによるネット世界の広がりによって、僕達よりも「空気を読む力が強くなっている」
そして、学校でも、暗記や答えを見つけるだけの勉強ではなく探究学習や自由な活動の選択肢で何を行ったかが受験でも重視されるようになっている。
自由だけど、受験で求められる「自由の使い方の正解」はある。
そんな空気をしっかりと読みつつ、今日も大人から自由で良いんだよと言われて、その不自由に苦しんでいるというのです。
僕はなんで自由なのに校庭を20周走ったのだろう。
そんな事を思い出して喫茶店でボーっとしている時に、ドリカムの懐かしい歌が聞こえてきた。
好きだけど、好きなのに、好きだから
そんな歌い出しでした。
僕達の感情は複雑です。
「好き」の部分に
「自由にやりたい」を入れても
「褒められたい」
「すごいと言われたい」
何を入れても、その複雑な感情を表現してくれます。
褒められたいけど
褒められたいのに
褒められたいから
僕は、褒められたいけど先生の言う事を素直に聞く事でバカにされたくありませんでした。
褒められたいのに、他の人が褒められるのと同じような褒められ方では満足できませんでした。
だから先生から言われてしばらくしてから20周という「普通ではないこと」で褒められようとしたのです。
自由だけど、自分のためになるからという先生の話に納得したからではなく、先生や先生だけでなくクラスのみんなの前で褒めてもらえる。それが自分を動かす動機でした。
つい最近、会社で新しく部下をもってリーダーになったメンバーの相談にのっていました。
自分なりに一生懸命仕事をして認められて、部下を持ち、今までと同じように情熱的に一生懸命働くことの素晴らしさを説くが伝わらない。
冷めた態度が不安でしょうがない、という相談でした。
本当に情熱的で、部下のことを真剣に考え真面目に自分の成功体験を伝えようとしている彼の姿を見ていて、僕の頭の中では
好きだけど、好きなのに、好きだから
と歌う野田先生の姿が想起され笑ってしまいました。
誰も悪気はない。だけどみんなそれなりに人生を重ねてきた事で
「こうすべき」というバイアスを持っています。
バイアスはいけないという空気もあるから、なるべく自分のバイアスがバレないように。
自由だよ。自分のやりたいようにやったら良いんだよ。と。
空気を過敏に読む事に強みをもった若者が、「自由という不自由」を感じるのはこういう構造なんだろうと思います。
ではどうしたら良かったのか?
野田先生や新しいリーダーは、どうしたらよかったのか?
学校やチームの空気を作るのはリーダーの影響が最も強いことは明らかです。
つまり、リーダーが変わることが本質的ですが、テクニカルに注意しないといけないポイントもあり、最近ではコーチングや心理的安全性といった言葉で研究が進んでいます。機会があったら
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