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寝酒の折の戯言…人の本性は善なるか悪なるか

以下は寝酒にブランデーを舐めつつの妄想である。

孟子は人の本性は先天的に善であると説いた。いわゆる人間性善説である。一方、荀子は人の本性は先天的に悪であると説いた。いわゆる人間性悪説である。前者によれば、人には生まれながらにして徳に発展すべき萌芽が備わっており、悪い行為は物欲の心がこの性を覆うことによって生ずる後天的なものであるとされる。後者によれば、人の生まれつきは悪であって、教育、学問などの後天的な努力によって、善の状態に達することができるとされる。

いずれにしろ、人は後天的な要素によって善にも悪にもなり得るという趣旨では一致していると解釈できそうだ。そうであるなら、先天的に善か悪かを問うよりも、人は善悪両方の本性を有しており、成長過程の環境によって培われた心の有り様によって、善にも悪にもなり得ると考えた方が、寧ろ素直なようにも思える。そのうえで教育や学問などが、善になるように心を制御する手段の一つであると解釈した方が、より実態的ではなかろうか…。

しかし現実問題としては、教育や学問などに打ち込む為にはある程度の経済力が必用である。昨今、貧困家庭やヤングケアラーの存在など経済格差、延いては教育格差の問題が、報道で取り上げられるようになって久しい。しかし、これらの貧困家庭やヤングケアラーとして成長した者が悪になっているケースが多いかと言えば、決してそんなことはない。反面、裕福な家庭で十分な高等教育を受けた者が、どうしたことか陰湿な悪になっていることも珍しくはない。

こうなると、善になる為に必用な後天的な要素なるものは、必ずしも教育や学問などだけではなさそうだ。だとすれば、人は先天的に善だったり悪だったりする訳ではなく、善か悪、いずれかの本性で生を享けると解釈すべきなのだろうか?また、一見類い稀れな善人にしか見えず、善行を繰り返している人の心の中には、本当に邪な心が全く存在しないと言い切れるのだろうか? 逆に悪行を重ね度々刑に服している人ですら、その心の片隅には後悔や憐憫の情が皆無と決めつけるのは早計だろう。

些細なことではあるが自身を振り返ってみても、他人の不幸に同情はしつつ被害者が自分でなくて良かったと安堵するもう一人の自分がいる。こんなことを言ったら傷つくだろうなと理性ではわかっていても、敢えてそれを口にしてしまう自分がいる。社会のために何かしなければと思いつつも、ついつい先送りにしてしまう自分もいる。それを思えば、やはり人は善悪両方の要素を合わせ持っており、後天的な環境によっていずれかの側面がより大きくはなっても、あるいは表面には出ていても、もう一つの性を完全に消し去ることはできないと考える方が、より現実に近いように思える。

仏教では、人は魂の成長度合いによって輪廻転生を繰り返し、その一層の成長の為に必用な環境に繰り返し生を享けると説く一派があるとも聞く。それを単純に解釈するならば、貧困家庭であれ裕福な家庭であれ、そこに生を享けたこと自体が己の魂の成長の為に必用、あるいは前世までの成長の結果であって、所詮は宿命であり如何ともし難いと考えられないことも無い。

好き勝手なことを綴ってきたが、私個人の結論は、人は本来善か悪などの議論は些末なことに過ぎず、重要なことは生を享けた環境を疎むことも、それに甘んじることもなく肯定したうえで、精一杯生きるしかないと言うことである。こざかしいことを書いた割には拍子抜けするような結論ではあるが、敢えて付け加えるならば、忖度ではなく人を本心から気遣える心を持てるよう、各々自分に可能な手段で修養を積むことに尽きると思う。

高等教育機関に進学できるならもちろん気兼ねは不要であるし、何らかの事情でそれが無理なら、可能な時間に独学やweb講座でも良い。知識だけではなく、手に技術を習得するのも良いだろう。あくまで自分に可能な範囲で物事に一心不乱に取り組むことが、結局は心の制御にも繋がるのではなかろうか。

さりとて環境によっては、それが許される時間も経済的ゆとりも無い人が実際には存在することも確かだろう。それを宿命であって如何ともし難いことの一言で片付けてしまって良いものだろうか…。所詮、酒を片手にした思考では堂々巡りである。柄に合わないことを考えるのは止め、今宵は素直に酔って眠ろう。

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