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人の思念が神そのものなのか、人の思念に神が感応するのか

神にも代替わりがあると言う。神話の世界では、伊邪那岐命が禊で黄泉の汚れを落とすと、天照大御神、月読命、素戔嗚尊のいわゆる三貴神が誕生した、等々の記載があるが、神の誕生や代替わりは人のそれとは様相が異なるようである。神道では、人の信仰が途絶えた神は消滅し、人の信仰が再現すると神も再び出現すると説くと聞く。このことも神の代替わりの範疇と捉えて良いのだろうか?
また、人が思念を凝らして祈ると、祈られた神はその祈りの善悪に関わらず感応するとも聞く。お百度参りや丑の刻参り、あるいは、仏教でいう調伏などがその例であろうか。
いずれにしろ、人の思念と神は密接に関連するように思える。捉えようによっては、人の思念そのものに超常現象を発現させるある種のチカラが有るようにも考えられる。強力な思念を発現させる為には、ただ心の中で漠然と祈るよりも、祈る対象があった方が効果があり、その方便として神なる存在が想定されたと解釈できないこともない。偶像崇拝がこうして起こり、さらに己の思念を強化する修行として、修験道や仏教の自力本願なる思想が誕生したとも解釈できそうだ。
合気道の創始者である植芝盛平がある霊覚者と対談する際、私は宇宙ですと発言し、それを受けて霊覚者は、私も宇宙です。神の分霊です。と答えたと言う逸話がある。こうなると、不遜ではあるが人の思念そのものが神と同一であると解釈しても、矛盾しないようにも思える。
一方、私は人の思念とは明らかに異なる、肉体を持たない超常的な何かが存在することを、体験を通して確信している。以前投稿したことがあるが、火事の最中に夢(?)を通して救われた事や、単独行で深山に入り、暴風雨に遭遇して遭難しかけた時に、不思議な声と幻影(?)に導かれて難を逃れた事など、例を挙げれば枚挙に暇がない。また、人が死してなお、少なくとも一定の期間は物理的な現象を引き起こす例も、少なからず実見している。類似した体験の無い方にとっては眉唾物にしか思えないだろうが、これは決して偽りや誇張などではなく、紛れもない事実である。
我々が暮らすこの世界には、どうも植物も含めて肉体を持つモノと持たないモノが併存しているようである。それは肉体をまとって生きている我々の中にも存在し、死して肉体が滅びてもなお存在できると考えると、これまでの体験の辻褄は会うのだが、実際はどうなのかは凡人の私には知る由もない。
また、かつて人だったかそうでなかったかを問わず、肉体を持つことなくこの世界に存在している何かが、時に波長が合う人の中のそうした存在に感応し、超常現象を発現させるのか、などと考えたこともある。神道の祝詞や、仏教の他力本願の思想などには、こうした背景もあるのではなかろうか?
仕事が一区切りついた事を契機に、酒を嗜みつつモヤモヤを無責任に整理してみた。私は心理学や宗教等について体系的に学んだことなど皆無であり、例によって何の根拠もないただの妄想に過ぎない。関連する分野の方々にとっては気に障ることも多々あると推察するが、寛容の精神で笑読いただければ幸いである。

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