山本弘はハードSF作家になりたかったが、ハードSFに徹していたら、山本弘の作家性は殺されてしまうのでは? という雑考

たとえば、歴史考証をちゃんとやってる事で定評が有り、御本人もそう思ってる歴史小説家・時代小説家の代表作とされる作品に関して、その小説家御本人に対して、こんな事を面と向かって言ったら、多分、ブチのめされても文句は言えまい。
「いやぁ、先生の代表作の○○○○ですが、時代考証に関しては甘い点が色々有りますね。でも、時代考証をちゃんとやってたら、先生の作品らしくない話になってしまってただろうし、何なら小説としての出来も落ちてたでしょうね。時代考証を無視して正解だったと思いますよ」
こんなクソ無礼な事を口走ったクソ阿呆をブン撲った小説家が、刑事だろうが民事だろうが告訴されたなら、情状酌量を願い出る嘆願書を裁判所に出すのが人の情というものだろう。
俺だったらブン殴られた阿呆が俺自身だとしても、そうする。確実に、そうする。

更に、その作家が亡くなった後に、これで御本人からの文句が来る心配が無くなったぜ、と言わんばかりに、評者にとっては誉めてるつもり、作者本人が生きて目にしたら(お察しください)みたいな「誉め」なのか「褒め殺し」なのか判断に迷うような代物を不特定多数の目に触れる所で公開したら、もし、あの世や死者の霊が実在してるなら、その小説家の怒り狂った亡霊が、俺を憑り殺しに来る事も心配せねばなるまい。
幸か不幸か、俺がこれから論じようとしている小説家は、あの世も死者の霊も存在してるなんて信じてなかったようだが。

良く顔を出してる集まりで、先日亡くなった小説家の山本弘氏の代表作「去年はいい年になるだろう」の読書会をやる事になった。
本書の内容は、未来から来たAIにより2001年以降の歴史が改変された世界という設定での、言わば作者本人の自伝である。
90年代に流行した「仮想戦記」「架空戦記」風に言うなら「仮想自伝」「架空自伝」的な作品だ。
いや、でも、日本のSF関係者は出てるけど……単に御本人が、そっちと繋りが無かったせいだと思うが、日本のSF史を語る上で欠かせない小説家の谷甲州氏やそのファンクラブである青年人外協力隊の事が一切出て来ない。
実は、谷甲州氏が90年代に発表した小説で「あれ?? 2001年の技術で『去年はいい年になるだろう』に出て来る未来から来たAIの母船を倒せないまでも、結構なダメージを与えたり、少なくとも、連中が望まない事態を引き起す事が出来るんじゃね??」的な事のヒントになるような事が書かれてたりするんで、ああ、この話の舞台になってる時間軸では、谷甲州氏とその関係者、まとめて全員、秘かに消されたかな??……なんて不穏な想像が浮かばざるを得ない。
いや、この「去年はいい年になるだろう」に出て来るAIは基本的に、そんな真似なんてしないよ〜な奴らで、単に山本弘氏が、谷甲州氏や青年人外協力隊出身の作家さんと面識が無かったので「僕の小説に貴方を出していいですか?」って許可を得る機会が無かっただけだと思うが……。
あ、待てよ、そう言や、何故か日本のSF作家の架空自伝なのに早川書房も出て来ないが……まさか、「去年はいい年になるだろう」の時間軸では、未来から来たAIへの対抗策のヒントが書かれてた航空宇宙軍史シリーズは早川書房や作者ごと……←やめなさい。
ええっと、で、ここまでは落語で言うなら枕である。本題に入る前にやる小噺。(その本題に入る前の小噺で、あっちこっちに喧嘩売ってる気がするが)

良く我々は「科学技術」と云う言葉を使う。
しかし、理学部出身だが、大学の他の理系の学部の教員になった俺の知人が、昔、こんな事を言いやがった。
「理学部以外の理系の学部は大学じゃなくて、ちょっと高度な専門学校だ」
とは言え、俺は工学部出身だが、どこの大学でも工学部の大概の学科には最低1人は、こんな事を言ってる先生が居ただろう。
「理学部の先生と共同研究をした事が有るけど、理学部の人は頭が固くて困る」
斯様に同じ理系でも、サイエンスとテクノロジーやエンジニアリングの間には、深くて広くて冥い、ドス黒い色の嫌な臭いがする明らかに何かヤバい成分が大量に含まれた汚水が満ち満ちたドブ溝が存在しているのだ。
そして……あくまで個人の感想だが、山本弘氏が「ハードSF」として書いていたであろう作品の科学技術考証は……サイエンスに関してはともかく、テクノロジーやエンジニアリングに関しては、色々と残念なモノが有る。
山本弘氏が小説家ではなく、研究者や大学教員になっていたら、優秀だろうが工学部や医学部や農学部なんかの、より「実学」的な学部のセンセの間で「あの野郎とだけは共同研究するな」と言われるタイプの理学部の先生になっていただろう。
ところが、困った事に、そのテクノロジーやエンジニアリングに関する考証の残念さが……多分、山本弘氏の思想や書きたいテーマや小説の主題と密接に関わっている。
仮に、俺が生前の山本弘氏の親しい知人で、「神は沈黙せず」や「去年はいい年になるだろう」の草稿を見せてもらったとしよう。
そして、俺は、工学部の情報系の学科の人工知能/パターン認識関係の研究室に在籍した事の有る自分からして、こういうツッコミ所が有る、と指摘する。
だが、ここに落とし穴が有る。山本弘氏が、もし、俺の助言を受け入れたが最後、それらの小説は全面改稿になった挙句、出来上がったモノからは、おそらく山本弘という小説家の作家性は消える。
何なら、小説としての出来が悪くなる可能性の方が高い。
そして、善かれと思ってやった事が最悪の結果を招くという、フィクションに出て来たら「また、このパターンか」とゲンナリするであろう事態になってしまう訳である。

で、「去年はいい年になるだろう」に出て来る未来から来たAI達は、合理性・理性・論理性などに関しては人間より勝るが、人間には無い感情を持っているという設定である。
そして、人間とそのAIの「共通言語」は合理性・理性・論理性である。
互いに理解出来ない感情を持っているが、合理性・理性・論理性は共通しているので意思疎通が可能な訳である。
けれど……。

大学の工学部の情報系の学科なら、大概は、論理数学やブール代数や集合論を徹底的にやらされるだろう。
あと、抽象代数学なんて、理系の他の学科であっても理学部の数学科でしか習わないであろう科目も必須になってる場合が多いだろう。
で、抽象代数学とは何かと言えば……。
例えば、小学校の算数の教育に関して、ネット上で良く上がる話題に、掛け算や足し算の可換則の件が有る。
テストの解答でa+b=cとやったら○なのに、b+a=cとやったら×になったみたいなアレである。
もちろん、変なのは、こういう○×になる何かの基準・規則であって、この件を指摘した人達ではない。
ところが、案外、答えにくい問題が有る。余りに当り前過ぎて、何故、それが正しいのかを深く考えた事も無い「何か」に関して、色々と残念な人が大真面目に「じゃあ、何で、それが常に正しいと言えるか説明してみろ」と問うてきた時に、言葉につまってしまうような問いである。

抽象代数学というのは「そもそも数や演算とは何か?」についての学問であり、「何故、一般的な『数』の足し算・掛け算では可換則が常に成り立つのか?」の答は「そもそも数や足し算・掛け算とは何か?」を定義しないと出ないのだ。
じゃあ、何で、こんな哲学か禅問答みたいな学問が工学部の情報系の学科で必要になるかと言えば……。

論理学と数学の集合論が、実は、同じモノを別の言葉で言い表したモノだというのを御存知の人は多いだろう。
そして、抽象代数学では、一般的な数以外にも様々な「数と演算の体系」が有り得る事を教えられる。
その1つ……零元(0)と単位元(1)しかなく、足し算と掛け算が定義されている数と演算の体系……ブール代数も、また、論理学や集合論と同じモノになるのだ。……あと、抽象代数学の知識は「何かが有限個の状態を次々と遷移していく」ようなデータを使う必要が有るプログラムを組む際にも応用出来るが。

何を長々と書いてきたかと言えば……任意に選んだある2人の人間が居たとする。
その2人が、同じく「合理的」「論理的」「理性的」なんて言葉を使ったとしよう。
果たして、その2人の言う「合理的」「論理的」「理性的」は同じモノを指しているのか?
1人は「自分は『合理的』『論理的』『理性的』な人間だ」と思い込んでいるが、実は、論理学や集合論を体系的に学んでおらず、もう1人は、「論理的」「合理的」「理性的」に物事を考える際に、無意識の内に頭の中でベン図を描いたり、ブール代数の計算を行なうような人間だとしても?
一方は、A→Bという命題が真ならB→Aも真だ、というのが「合理的」「論理的」「理性的」だと思うかも知れず、もう一方は、A→Bという命題が真だというだけではB→Aも真だとは言い切れない、というのが「合理的」「論理的」「理性的」だと思うかも知れない。
どちらが正しいかは、論理学的には明らかだが、それはともかく、同じ人間同士でも斯様に「合理性」「論理性」「理性」は共通言語とは成り得ない。
ほら、SNSにもウジャウジャ居るでしょ……自分を「合理的」「論理的」「理性的」な人間だと信じてるが、どう見ても、単なる詭弁と「合理性」「論理性」「理性」の区別が付いてないのが明らかな阿呆どもが。
自分を善人だとヌケヌケと言える奴らの中に本当の善人が稀なのと同じよ〜な理屈で、自分を「合理的」「論理的」「理性的」な人間だと信じてたとしても、本当に論理的に物事を考える能力が有るかは別問題な訳ですよ。
怒り狂ってる人が筋道立った事を言う事も有れば、冷静な奴が頓珍漢な事を言ってる事だって良く有る訳ですよ。
そもそも「合理性」「論理性」「理性」とは何なのか? という問いの答は、んじゃないですかね?

多分、人間に近いが、人間に無い感情を持ってるAIが作られたとしても、人間はAIには有るけど人間には無い感情を、人間が持ってる似ている感情に「意訳」して理解する事が出来るかも知れない。
ところが問題が1つ。

AIの研究には、2つの大きな流れが有る。
正確さより判り易さを優先した言い方をするなら、1つは人間の理性や論理性を再現しようとするものであり、もう1つは人間が学習や経験で得た直感的な判断を再現するもの。
この2つは全く別の技術であり、例えば手書き文字の0123……89をコンピュータに判別させたい場合なら、前者であれば各文字を判別する為の何らかのルールを作り出し、後者であれば手書き文字を何次元かのベクトル(複数の数値の組合せ)に変換し、各文字ごとの統計を取って、それを元に判別を行なう。
後者の場合、各文字の性質は、平均値とか分散(ばらつき具合)などの数値として表現される。では、その数値を人間に理解出来る論理的な言葉に変換しろ……なんて事は、ほぼ無理である。
そして、2015年ごろに、ディープ・ラーニングという技術が広まる以前から、1つ、言えていた事が有る。
人間の理性や論理性を再現しようとしたAI研究は死屍累々。
人間が学習や経験で得た直感的な判断を再現しようとしたAI研究は……途中で停滞の時代を何度か挟みつつも、概ね順調に発展してきた。
そう、「去年はいい年になるだろう」が書かれた時点でさえ、明らかに言える事が有った。
もし、未来において、人間に似た振る舞い・思考をするが、人間よりも合理性・論理性・理性に勝るAIが実現されるなら、可能性は2つ。

1つは、何かとんでもない技術的なブレイクスルーが有り、20世紀末〜21世紀初頭のAIとは完全に別物である事。
下手したらAIとは呼べないが、AIと呼ぶしか無いモノ。
喩えるなら……原子力発電所をタイムマシンで核融合・核分裂は発見されていないが、火力発電所は実用化されていた時代に持って行ったとしよう。
原子力発電所は原子力発電所であって火力発電所ではないが、原子力発電所を火力発電所しか無い時代にタイムマシンで持って行った者は、火力発電所しか無い時代の人間に、こう説明するしか無いだろう。「火力発電所の発展形だ」と。そして、その時代の人間達は、火力発電所とは明らかに違うモノなのに、火力発電所と共通する機構が有るのを見て、「未来から来た火力発電所みたいなモノだ」と納得し……何なら「火力発電所」と呼ぶようになるかも知れない。
現代のAIとは火力発電所と原子力発電所ほどの違いが有るが、現代の我々には、それを適切に呼ぶ為の概念や言葉が無いのでAIとしか呼べないモノ。

もう1つの可能性は、未来においても、現代のAIの延長線上に有るAIしか生み出せず、AIの持ってる合理性・論理性・理性は学習によって得た付け焼刃に過ぎない、というモノ。

例えば、AIのソフトウェア構造を下記のようなモノだと仮定してみよう。

「現代のAIとは火力発電所と原子力発電所ぐらいの違いが有る、最早、AIと呼んでいいかも判らないが現代の概念・語彙ではAIと呼ぶしか無いモノ」を作る技術が未来において実現したならば、AIの論理性・合理性・理性などとは図の「AIプログラム本体」内で実装出来るだろうが、そうでない場合に、人間に近い振る舞い・思考をするAIを実現したければ、「論理性・合理性・理性が有るように振る舞う機能」は「学習したデータ」に丸投げするしか無い。
後者の場合、AIの内部で何が起きるかと言えば、AIが「合理的」な思考・行動をしようとする場合、いくつかの選択肢の中から「合理的」のパターンに最も合致したものを選ぶ事になるだろう。
表面上は合理的な行動・思考を行なっているように見えるだろうが、AI内部で起きている事を人間の脳内で起きている一番近いモノで言い表せるとするならば……。
「直感」
「勘」
「パターン分け」
そして、そのような方法で合理的な振る舞い・行動・選択をしているように見えるAIは……おそらくだが、何故、それが合理的な選択なのかを説明出来ないか……説明出来たとしても薄っぺらい説明になってしまうだろう。
もし、そんなAIが人間に、自分達がどのようなプロセスで合理的な思考をしているかを説明出来たとしても、人間側の理解のやり方によっては「少しも合理的でない思考プロセスが何故か合理的な結論を出しているかのような超常現象」とさえ思うかも知れない。将棋AIが最善手を見付ける為のプロセスを説明する事が出来たとしても、摩訶不思議な訳の判んないモノにしか思えない可能性が十分に有るように。
未来の人類が作り出した表面上は合理的な思考・行動・選択をしているように見えるのに、実は中には何の合理性も持っていない人工知性体(いや知性体と言えるのか?)が、現代かそれに近い時代にタイムスリップして、現代または近未来の我々とファースト・コンタクトをしたならば……?
ほぉら、何か、面白いSFになりそうなアイデアでしょ。
でも、デカい問題が1つ。

これ、林譲治氏あたりが書くのに向いてるネタであって、山本弘氏の小説に向いたネタなのかね?

はっきり言って、「去年はいい年になるだろう」に出て来たAIの設定や描写は古臭いですよ。15年ぐらい前の作品である事を差し引いても。
15年前の時点でも、ダセぇよ、アレは。
……でもね……。
科学考証ならぬ工学考証をしっかりやったAIを「去年はいい年になるだろう」に出してたら、もう、それは山本弘という小説家の作品じゃなくなるし、そんな話を山本弘氏が書いてたら、今、この現実に有る「去年はいい年になるだろう」より出来がアレな代物になってたとしか思えない。
山本弘氏という小説家の小説である以上、あのAIの描写や設定が、そこだけ切り出せばダサかろうが古臭かろうが工学的にツッコミ所が有ろうが……山本弘という小説家の思想や表現したかったテーマやストーリーと合致していれば、それでいいんですよ……多分。
部分的にダサくても、全体として面白けりゃいいんじゃないですかね?

神も霊もあの世も信じていなかったであろう山本弘氏が、仮に信仰と呼べるモノを持っていたとするなら、それは人間の理性に対する信頼だったのだろう。
でも、俺はひねくれた人間なので「理性を失なう最も簡単な方法は、自分が理性的な人間だと信じる事じゃないのか?」「もし、極限まで理性的な存在が居たならば、そいつには理性の限界さえ見えてしまい、感情や直感などの『理性以外の判断方法』と理性による判断を併用する事こそ『理性的』だと考えるようになるのではないか?」……そんな発想をしてしまう。
果たして、山本弘氏と俺が同じく「合理的」「論理的」「理性的」という言葉を使っても同じモノを指している保証は有るのか?……どうしてもそう考えてしまう。
そんな「何が『合理的』『論理的』『理性的』なのかは万人にとって自明なモノではない」と思ってる自分からすると、宗教に対する狂信を嫌っているように見える山本弘氏の小説に、時折、ある種の違和感を感じる事が有る。あえて言葉にするなら「理性に対する狂信」だ。多分、山本弘氏は俺とは逆に「何が『合理的』『論理的』『理性的』なのかは万人にとって同じで、しかもそれは自明なものだ」と思っていたのだろう。
「去年はいい年になるだろう」の最後にいきなり出て来て、あっさりやられるあの悪役が典型例だ。安っぽい。安っぽ過ぎる。「幸福の科学」の宣伝映画に出て来る悪の化身よりも安っぽい。「仁義なき戦い」の山守組長や「装甲騎兵ボトムズ」のカン・ユーのような「安っぽい悪であるが故の魅力」すら無い。マジで勘弁してくれ。
山本弘氏の作品に出て来るあの手の悪役は、どう考えても「理性教」の狂信者が作った布教用作品に出て来る悪役にしか思えない。作ってる奴が薄っぺらい狂信者なんで、そいつが考える悪も薄っぺらい狂信者になってしまったかのような……。俺にとっての悪は万人にとっての悪であり、それが理解出来ない奴は単なる阿呆だと思ってる、頭の良さと狭い視野が結合した人が考え出したような「悪」だ。
あらゆる正義や善を相対化し尽した果てに、それでも猶、最後に残る相対化し得ない善が理性であるならば、真に恐るべき悪は理性を否定する者ではなく、理性に似て非なるモノを理性だと言い張る者だろうが、何故か理性こそがモラルコンパス(その物語の中での善・正義)である「去年はいい年になるだろう」の悪は、それではない。まるで、作者が、そのような存在を思い付けなかったか、そのような存在に恐怖を抱くあまり目を逸らしてしまっているか、もしくは山本弘氏の信仰では「悪(愚かさ,非理性)は神(理性)の名を騙れないし、仮に騙れたとしても神(理性)の名を語る神(理性)ならざるモノを神(理性)と信じるマヌケは居ない」って教義でも有るかのように。
けれど、多分、それは、山本弘氏の小説における「山本弘らしさ」と不可分のモノなのだろう。
ある作家・表現者の魅力は、その作家・表現者の欠点や危うさや、その表現者が持つ「人間としての歪さ」と不可分なものかも知れない。
「歓びと怒りを中和させて、気むずかしげな満足を得たいとは私は思わぬ。私が得たいと望むのは、もっと猛々しい歓びであり、もっと猛々しい不満なのだ」というのは推理作家のG.K.チェスタトンの言葉だが、賢しらな現実主義者ヅラをした凡庸な中庸に到達した時、おそらくは表現者は死ぬ。

良く顔を出してる集まりでやった読書会の為に「去年はいい年になるだろう」を読んでみたけど……まぁ、悪くは無いと思いますよ。
いや、面白かったと言ってよい。
でも……俺のこの感想は……喩えるなら「ちゃんと時代考証をやった歴史小説を書ける小説家」をずっと目指してきた人の代表作となる歴史小説に対して「いやあ、歴史考証的には突っ込み所が有りますが、話としての面白さや、貴方の作家性が出るかを考えると、あの部分は歴史考証を無視して正解だったと思いますよ」なんて誉め方をするのは……果たして誉めてると言えるのか?
その点に関してだけは自分でも答えが出ない。これだけ長々と書いてる間に、色々と自分の考えがまとまってはきたつもりだけど、この答だけは出ない。
ただ、山本弘氏が生きていたなら、絶対に、御本人の目に止まる場所では書けないor言えない感想なのは確かだ……やれやれ。

とは言え、俺も素人小説を小説投稿サイトに投稿してたりするんで、こう思わざるを得ない。
ある小説家が、その人にとっての「ずっと目指し続けていた小説家としての理想の自分」になったのと引き換えに、それ以降のその人の小説からは、その人の作家性が失なわれ、何なら、前よりつまらない作品しか書けなくなってしまったとしたら……。
小説家であれば、誰でも、そんな悲喜劇が起き得るのだとしたら……小説のネタになりそうだな、それって

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