あなたのはなし
もうすこし話をききたいな、と思うことがある。
考え方が合っている、似通っているときはもちろん、ちがうときにも深くききたい場合があり、それは体感めずらしい部類に入っている。
親しいひとと話すのは楽しくて自然だ。それとは別に、よく知らないひとについて、信じられるかを確かめるようにきく。
考え方がちがうのだから、まったく聴くに値しないとしたときには去ってしまう。
よく知らないひとのよく分からない話なら、去るほうがほとんどだろうと思うのに、そうでないときが不思議でならない。
はっきりあやしい要素があるならまだしも、どの部分で確かめるべきかを判別しているのだろう。
なんとなく話すひとに寄るのであれば、感覚的な相性のような気もするし、なぜそんなことを話すのか、筋が気になって仕方がないようにも思う。
とすると、一見まるでちがうなりに、どこかで自分と重なりあう可能性があるように思えて、より詳しい話をききたくなるのかもしれない。
まったく考え方が同じひとというのはめずらしいし、そのうえぱっと聞いた印象が相容れないのは、もっとめずらしい。
なんだろうこのひとは、と思うときには、主観で行動を精査している。
いままでの経験からなんとなく以外にはたぶんない。
同じとちがうに分けながら、すこしずつちがうに広がっていくのが、ものを知ることなのかもしれない。
それなら体感めずらしいとは思ったけれども、本屋ではいつもやっているように思う。
いつもの雑誌、いつものジャンルから、すこし離れた棚を歩く。
身近だ。
「あなたの話をしている」と、分かる内容が一文めにくるように、惹句を決める話を思い出す。
そうでなくても、自分の話は何とでもつなげようと思えばつながる。「人生」のたとえがなにであっても当てはまるのと似ている。
いま現在がひとりかどうかは関係なしに、世界のたくさんとつながっているような状態、というのを、目指すことができたら嬉しい。
そういうものを見たときに、豊かだ、と思う考え方が、なんやかんやで出来ている。
わたしの主観ではなんとなく、それが信じられる相手の態度のひとつだ。
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