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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑲『年表・第三期(1905年~)・≪振華興亜会≫/ベトナム国内の爆弾投下計画/杜基光(ダウ・コ・クアン)氏』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』

≪振華興亜会≫

 この時期に≪振華興亜会≫も設立した。上述した様に、諸々の行動を第一段階と第二段階とし、其々多少の進展を見てから、次に実行した第三段階がこれだった。
 武装革命蜂起の実現を目指し、国内の習兵達への働き掛けと、国外に於いては軍費、軍需物資の手配に奔走したが、それらは全て支那軍の援助を必要とするから、その連絡事務所を設ける必要があった。蘇少樓(そ・しょうろう)氏と鄧警亜(とう・けいあ)氏や、その他の同志らが言うには、
 「革命事業は元来実勢に拠らねばならぬが、時に虚勢を借るも必要だ。虚声を借り、事を起こして蓄えた実力で後事に当たる。現在貴兄らの実力は甚だひ弱だから、虚勢を挙げて存在を公けに知らせるべきだ。先ず機関事務所を設立して外面を保ち、世間に周知せよ。広東人なら、貴兄らの事業内容の10分の5、6を知って初めて心から応援したいと思うもの。これも≪虚仮寔之≫という兵法のうちだ。」

 この説得があり、又私自身その時それ以上良い考えも無かったのでこの策を取ることにした。
 以前陳其美先生から頂戴した喜捨は、もう既に2千8百元を使っていたので残りは千2百元。ここから7百元を特別行動費として支出し(この件は後述する)、残り5百元を元資金にして連華(=中華連帯)機関を設立すると決めた。手始めに立ち上げたのが≪振華興亜会≫であり、この会の綱領と宣言書を起草して、蘇氏や鄧氏、その他同志らへ見せて同意を取り付けた。
 この、≪振華興亜会宣言書≫の要旨は以下の通り。

前段:『中華は、国土広く人民多し。全亜細亜の最大国であり、東方最古の文明国である。全亜細亜の父長の天命を背負う中華国が、亜細亜の弱小国家を守り扶けてこそ初めてこの天命を正しく全うしたと云える。
 満清(満州・清)時代にこの父長の宿責を放棄したことは、中華にとって痛恨の屈辱である。』

中段:『中華にとっての罪は外交に在り、これは不可避であった。不可避だった理由は、 国威の失墜に在る。国威発揚は、欧州排撃に在り、欧州排撃は、ベトナムを扶けフランスを排撃するに在る。何故ならば、ベトナムは中華国に属すからだ。その理由を詳述する。
 ◎英国海軍の偉大さに比べ、中華の海軍力は脆弱。現状、英国を相手に立つは不可能。
 ◎日本は英国の同盟国。新たに台頭した新興国であり同文同種の国ではあるが、単なる友人として処するべき。
 ◎ドイツの第二代皇帝は智勇に富み全欧州の覇権を狙っている。且つドイツはフランスの宿敵であり、フランス攻撃を目論む背景は我等と同心だ。故に現状に於いて片翼として頼みに出来るはドイツ一国のみ。
 ◎ロシアはフランスの同盟国。フランスを排撃せばロシアが出て来る、だがドイツはロシアを抑制可能だ。しかし、現在ロシアは国内革命勢力を怖れ、それを日本が虎視眈々と狙っている。依ってロシアは中華に手を出す心配無し、これが外交の現状。
 ◎経済、軍事問題では、将来もし中国がベトナム援助をし、それが理由で戦火が勃発しても、中国に有利だと明言し得る根拠が幾つかある。
1) ベトナムと雲南・広東は、領土と陸路に連接し、兄弟の如く往来が容易。中国軍がベトナムに攻め入って敵側兵糧を分捕る一石二鳥の策。
2) ベトナムは熱帯国土。寒国から渡来するフランス人は熱帯気候下の戦争に耐え切れず、支那軍を打ち負かせない。
3) 支那・ベトナム領土は隣接す。比べフランスは海を隔てた何万キロも遥彼方だ。援軍が到着しても、叩くは易い。
4) 在ベトナムのフランス駐留軍は少数で、緊急の援軍は間に合わない。そこに突如支那軍が起てば、途端にベトナム兵士は振り向き直って後方へ銃を構えるだろう。』

後段:『中華国は、フランスへ宣戦布告する前に予備軍隊を編成すべき。この予備軍隊の先陣部隊にベトナム革命党を配置する。対フランス戦で充分な戦力として威力を発揮するだろう。』

 結論としては、中華の国威発揚が東亜の台頭を促す。その第一歩は、フランス排撃を目的にするベトナムへの援助が最も有効だとした。
 上記が≪振華興亜会宣言書≫の概要だった。

 この宣言書と会綱領を発行し、広東各所や支那各地の人士へ配布して多くの賛同を得た為に、ここへ来て広東式住居を借り受けた。家賃は一月36元、10部屋余の広い二階建て住居であり、表通りから見ると3軒に分かれていた。このうちの一軒の表玄関に≪東朋医社≫と書いた文字看板を掲げて、医院を設立した。西洋医師主任は楊鎮海(やん・ちんかい)氏、中華医師主任はマイ・ラオ・バン氏。往診患者を増やし、我らの目的達成に繋げようとの意図だった。
 表玄関3軒のうち一軒はこの医院、そして真ん中の一軒は≪振華興亜会≫の会所、そして屋内をベトナム光復会会堂として使用した。見栄え良く、規模も申し分なかったから、多くの人にベトナム革命党の名を覚えて貰えた。これも、≪虚声作用≫の一成功例と云えるだろう。当時の広東メディアには、新聞記者の友人が多く居り、我ら側の革命運動を宣伝する文書の作成に対しては、常に惜しみない協力をしてくれた。

 さて会の方は、一カ月位経ってから支那人達の入会署名を得たところで創立大会を開催した。出席者は約2百余名、地元商工界や学会重鎮、軍営将官、学識ある婦女子らなど多くの参列を得た。開会してから先ず、≪綱領と宣言書≫を読み上げて、出席者全員の採択を取った。一部会員による多少の斟酌もあったが、最終的に満場一致の同意を得て、 その後に広東人鄧警亜(とう・けいあ)氏、ベトナム人ファン・ボイ・チャウ、ラム・ドック・マウ 氏が其々聴衆に向け長演説を披露すると、会場から拍手喝采が湧いた。そして、この場で広東人鄧警亜氏を会の会長に、ベトナム人ファン・ボイ・チャウを副会長に選出し、書記その他の会職員には中華人とベトナム人を入り交ぜ選任してから、続いて会の行動順序について討議を進めた。 焦点は綱領の既定順序だが、これは先ず第一に≪ベトナム援助≫、第二は≪インド、ビルマ援助≫、第三は≪朝鮮援助≫とし、会の核目的は、≪振華興亜≫であり、戦火を開くは何を差し置いてもベトナムを第一とす。大会の出席者、各要人ら全員一致でこの主張の採択を得ると、鄧警亜氏が壇上に立って、聴衆へ向かって演説をした。
 「ベトナム援助の方法は色々ありますが、先ず必要なのは資金でして、活動資金の募集には軍用票発行が最も利便性が高く迅速な方法であります。現在、ベトナム光復会は光復軍軍用票の印刷を完了しました。御来席の中越同志の皆さま、どうぞご購入頂けますようお願い申し上げます、、、云々。」

 鄧氏が言い終わるや否や、多くの参列者から賛成の声が挙がった。閉会間近の頃には軍用票の売り上げはおよそ千元に達し、全額ベトナム光復会へ交付された。振華興亜会の会員になった支那人の中には、会計画の促進の為にと、我が国情勢に通暁した者を選んで実務を委任し、その彼等をベトナム光復会へ加入させたりした。

 壬子(1912)年8月、ベトナム光復会職員の再改組を行った。この時に支那人の参加があり、会総理をファン・ボイ・チャウとし、広東人蘇少楼(そ・しょうろう)氏が副総理、黎麗南(れい・れいなん)氏が財政部総長、そしてマイ・ラオ・バン氏がこの副総長、台湾人楊警亜 (やん・けいあ)氏が庶務部総長でファン・キ・チュァン氏がこの副総長にと、其々に選出した。交渉部長と副部長は、総理と副総理が兼任するとした。この時は、ベトナム光復会設立以来で初めて革命実行の希望が見えた。また幸いなことに、この時の広東省省長は、ベトナム光復会に同情を表明していた陳烱明(ちん・けいめい)氏だったから、我ら革命党の行動に干渉を加えることは無く、活動は自由だった。こんな状況下だったから、軍用票の引き受け手が日増しに急増していき、集金額は数千元に達した。
 これで、対外交渉費用等の活動費も充実し、もう貧乏人同志で一日中顔を突き合わせている必要が無くなった。 とはいえ、やはり目の前の困難は、如何にして武闘革命を起こすかだ。軍需、軍機、軍功賞等々へ支出する資金は、上述の軍用票売り上げ金の他に追加で数万元が必要だった。その様な大金を得る為には、やはり祖国で何か事件を起こして国民から大きな反響を得る以外に方法は無い。こんな理由と背景により、我々は激烈な活動へと舵を切らざるを得なかった。


 ベトナム国内の爆弾投下計画

 こうして、この頃に過激な示威行動を計画し、これを実行した。
 自分の小史を記す時、 心底痛みに耐えつつ流るる涙を拭うも、筆は思う様に進まない。士気猛き熱情に溢れた幾人もの同胞が死んで、風前の灯の祖国を生かすため犠牲になった。少数の苦難を忍んで大多数の幸福を求む。その為に我々は、何を惜しむ必要があろうか。
 この世の出来事はなんという障害の連続で、天の恵みを手にするにも幾万の困難が伴う。無辜の同胞が犠牲になりながら、何の結果も挙げ得なかったこと、それは私の極悪なる大罪だ。自ら進んで千万の汚名を受け入れなければならないだろう。

 壬子(1912)年秋頃のベトナム光復会改組後、ベトナムに潜入していた3人の委員が戻って来ると異口同音にこう報告した。
 「国内で軍事行動を起こすには、先ず驚天動地の事象を見なくては効果が無いでしょう。国民は目前の成功を夢みるばかりであり、月次年次計画の下に彼等が起ち上ることはまず無い(これが根本的な大問題)。基金募集もこれと表裏一体にあります。」
 
 この報告を受け、私は会の残資金7百元と軍用票の売上金5百元の合計千2百元を特別工作費として支出した。
◎4百元をグエン・ハイ・タン、グエン・チョン・トゥェンへ渡し、ラン・ソンルートから北圻地 方へ潜入。
◎6百元はハ・ドゥン・ニャン、ダン・トゥ・ヴォへ渡し、タイから中圻地方へ。
◎2百元はブイ・チン・ロへ。タイルートで南圻へ潜入。
 彼等全員が、自ら進んで危険な過激暴動の任務に志願した。
 彼等は其々3方面へ向け出発した。張子房(ちょう・しぼう)の錐先が、安重根(あん・じゅんこん)の短銃が、3圻地方で同時に起こり、植民地強権政治下の領主誰か一人でも仕留められれば、必ずや国民の心を揺さぶる筈だ。仇の脳天を砕けば、大反響が巻き起こるだろうと私は祈念した。
 だがしかし、誰が想像し得たか。結果は何も起こらなかった。

 北圻では、政府大物へ爆弾を食らわせること成らず、単にタイ・ビン省巡撫一人とレストラン経営の西洋人を巻き込んだだけに終わった。タイへ向かった4個の爆弾は、目的地に到着する前に我が農営舎内で暴発した。ブイ・チン・ロが携帯した爆弾2個も、ケチな密偵を数名殺ったのみ、且つ彼の生命も犠牲になったという痛恨の極みだった。 計画当初には想像もしなかった無残な結果に、後々この事について熟考したが、あれは事を謀り人を謀るに未熟な私の罪だったと深く後悔をした。テウ・ラ先生に比べると、余りの違いに愕然となった。 それでもこの一件は、私へ得難い貴重な経験を齎した。

 元々私はこの計画を極秘にし、 公けにしないつもりでいた。だた、常日頃から同志たちの集まりで、私が自ら張子房(ちょ う・しぼう)や安重根(あん・じゅうこん)になれないこと、いつの日か祖国にこの2人の様な人物が現れて欲しいなどと深い溜息と共に嘆いていたから、同志たちはそんな会話から私の意を汲み、それで危険任務に進んで志願したのではなかったか。実際のところ、私は彼等に求めてはいなかった。それでも、彼等はあの時あの危険任務に赴いたのであろう。
 ≪成三十戴平生志 発四千年歴史光≫
 これは、グエン・ハイ・タン氏が任務に就く前に残した離別の句だ。もし、命がけの任務の前に僅かでも名心利心が頭の片隅に残っていたならば、≪殺身成人=己を殺し人と成る≫の境地にある訳はない。あの計画の如く、危険を冒して人と成るに当っての実行者は、 公明絶大、名利に対し僅かの思想も持ち得ず、思慮深く、豪毅で忍耐強く胆力あり、非常に堅固な心の持主でなければ無理だ。もし一点でも欠ける者を鼓舞し、任務に赴かせても、結局は誤魔化しに過ぎず、結果は得られないのだ。私は、この時に初めてそれを理解した。
 そうは言っても、あの時のブイ・チン・ロ君の死は無念極まる。ここに哀悼の誠を捧げたい。

 チン・ロ君のタイ行きは、彼の志願ではなく私が行かせたのだった。
 彼はまだ国内に居る時、長い期間に亘りグ・ハイ氏の下で党務に携り、グ・ハイ氏の殉死後も党員として昼夜奔走していた。ある日、密偵に摘発され逮捕、終身刑で投獄されたが、獄内でたまたま疫病が蔓延し、毎日罪人の病死体が積み重なった。この機にチン・ロ君は病死体のふりをして、舎弟に言いつけて埋葬させた。獄吏たちは疫病死体に近寄ろうとしないから、埋葬後に舎弟に棺を掘り出してもらって見事生き返り、即南圻地方へ逃走した。それから、高蠁 (カオ・マン=カンボジア)からタイを通って私と共に広東へ渡ったので、私は彼が南圻地方行きの経験があるために道中に明るいこと、尚且つ死を怖れない人間だと知っていた。 それ故、あの時彼に爆弾を託したのだった。
 だが残念ながら、彼は、思慮深く豪毅、且つ忍耐強い部分が欠けていた。小怒に負かせて大謀を常に失した。 チン・ロ君は、爆弾を忍隠してバンコックに潜入したが、この小怒を抑えられず爆弾の引き金を引き、密偵2人に投げつけた。即座に地元警察に捕らわれたが、どうせフランスに引き渡されることを憤って、そのまま残りの爆弾で自決してしまった。
 ≪明珠を以て雀を打つ≫、張子房や安重根なら、こんな不覚を取る筈がない。それもこれも、私の任命不覚の罪でもある。
 後に私が広東獄内で書いた『再生伝』は、このチン・ロ君のこと。グ・ハイ氏が未だ健在の頃に金銭、武器、文書と沢山の輸送を請け負い、年に5、6度もタイ-ベトナム間を往来したのが彼であり、ゲ・ティン省の党人は彼に非常に助けられた。

 北圻の爆弾投下は11月だった。学校掲示板で郷試日程を確かめたにも拘らず、爆弾は郷試会場前ではなく、西洋レストランで空しく爆発した。
 道を差し示されるも、何故か小道に迷い込む。陳其美先生に贈られた貴重な爆弾だったが、局面で大失敗をした。≪幽冥之中、負此良友≫、あの世で陳先生に逢ったら、どんな言い訳しても足らないだろう。

 壬子(1912)年12月は、西洋レストランの爆発が広東に伝わったが、この頃は同時的に様々な問題が踵を接して次々発生した。古今に天下の謀事は、成功の後で1、2の成功が続けばまだましで、反対に失敗の後は無数の失敗が背後を追い来たると云う。
 ≪福不重来 福不単至≫、この時、正しくこの句を嚙み締めた。

 北部のホテル内爆破事件を受け、フランス政府は正式に我等に関する抗議文を支那政府へ送付した。ベトナム機関は殺人犯機関であり、ファン・ボイ・チャウはその首領だとして、 在北京フランス公使は3度に亘り中華政府に対して犯人の引き渡しを要求した。だが、不幸中の幸い、この時の中華総統は強硬外交派の雄、袁世凱(えん・せいがい)氏だった。袁総統は、クオン・デ候が北京を訪ねた時も、段祺瑞(だん・きずい)総理を代理に遣わし歓迎の意を表してくれた人物だ。もう後5年程待てば、袁大総統が中国平定事業を終え対外示威活動を開始するから、その時こそベトナム同志たちが事業を起こす時だ。これが段総理の意見だった。
 我国青年達の多くは、支那官費を得て北京学校で学び、卒業後に全員袁世凱総統からの庇護を受けていた。故に、フランス政府から抗議を受けても、中華政府は証拠不十分として取り合わなかったから、お蔭で広東の我党機関事務所は辛うじて余喘を保ったが、 光復軍軍用票の方は一気に評判を下げることになった。理由は、ベトナム国内の革命活動からは何も音沙汰が無く、在外に於いては活動が圧迫されている様子を見留めた広東商人らの投機意欲が次第に消沈して行ったのだ。
 座して居るだけでは金銭は得られない。だが、もがき喘げば喘ぐ程、金は慌てて消え行く。これが偽らざる当時の心境だ。心底から苦難を感じた日々だった。

 癸丑(1913)年の1月か2月頃、広東に滞在する我党党員は総勢百余名程、この頃は正しく戦火の中に一生を得るか、或いは後退して即死するかという、≪残軍臨大敵≫の如し状態にあった。旗を振り、太鼓を鳴らしての虚声、軍用票で得た資本も大戦局には役に立 たず、既に機を失した。諸々の計画全てが失敗に終わった、これ以上繰り返しても、幸運を待ち、博打を打ち続けると変わらない状態だった。
 この時期の出来事には、実にお粗末な話がある。人員は過剰で金銭は欠乏、そんな困苦状態に置かれると人間は増々どんどんと貧窮へ落ちて行く。文明人による詐欺の一手が編み出されたのは、そんな時だった。
 我が医院≪東朋医社≫の取引先に日本人経営の薬問屋があり、現金で売買取引していた為にお互い信用が有った。それに、楊鎮海(やん・ちんかい)氏が誠に流暢な日本語を話すので、薬問屋は此方がベトナム党の人間とは気付かなかった。そして或る日、売掛で一度に3百元分の薬を買い、期日が来ても売掛金をそのままにして≪東朋医社≫を閉社した。これ以外にこの手で得た幾らかの金も、諸々の革命運動に奔走して全部費えてしまった。 ホアン・チョン・マウ君が、広西省で緑林諸勇や除隊民兵らから駆り集めた軍資金や、 ダン・トゥ・マン君、ホアン・フン君、ダン・ビン・タイン君らが密かに香港で爆弾爆薬製造工場を作った時の資金も上述の如き手口で作った金だった。 後にホアン・チョン・マウ君は捕縛され、その後にタン・ヒエン君らも結局全員捕縛され た。ダン・トゥ・マン君が指3本を吹き飛ばされ、獄舎に数か月も拘禁された禍の炎芯もこの時に在り。タイへ行ったチャン・フゥ・ルック君は、乏しい軍備で中圻へ入り、ルオン・ラップ・ニャム君は北圻へ、グエン・イエン・チウ君は南圻へと、皆が皆、資金を得る為に決死の覚悟で危険を冒して捕縛された、その因もこの頃に端を発していた。

 庚戌(1910)年3月。この頃は、広東に居た私とマイ・ラオ・バン翁2人で党機関を死守していた頃だ。同居の同志40人位と共に飢えと渇きに苦しみながら、一日一日を繋いでいた。そんな状態でも、先述した如きのベトナム国内向け抗仏鼓舞運動は進めねばならないから、その為に河城(ハ・タイン=ハノイ城)投毒事件顛末の詳細を余す事無く書き留めて、『河城烈士伝』を上梓した。
 石板印刷で印刷したこの冊子は、杜基光(ダウ・コ・クア ン)氏に託して国内へ持ち込み、軍隊内で拡散してもらった。フランス兵営内の同胞兵達の思想へ僅かでも訴えることがあることを願った。
 ≪河城烈士≫とは誰のことかと云えば、私の耳に届いた戊申(1908)年ハノイのフランス軍兵営内で投毒謀計を謀った黎廷潤(レ・ディン・ニュアン)氏、阮治平(グエン・チ・ビン)氏、杜廷仁(ダウ・ディン・ニャン)氏、それとフランス軍兵営の料理人だった二軒(ハイ・ ヒエン)氏らのことである。 こういった無名の英雄への崇拝文を書く以上に嬉しいことは無い。ここに、ダウ・コ・クアン氏の忘れ難い結末を書き留め置く。更なる詳細は、『ベトナム義烈史』に書いてある。

 杜基光(ダウ・コ・クアン)氏

 ダウ・コ・クアン氏が広東に渡って来た頃は、ベトナム光復会の活動がまだ非常に活発だった時期だったが、徐々に活動が収縮して、広東・広西からベトナムへ行くルートも塞がれてしまった。クアン氏は仕方なく雲南からのルートを使って北圻へ戻る為、この旅費を私に願い出たので、私はついでに彼にハノイ習兵への鼓舞運動を委託した。けれど、この時彼に同行した阮黒山(グエン・ハック・ソン)という男が危険な人物だったとは、誰も気が付いて居なかった。

 元々から、クアン氏の出洋時にその出洋費用を工面したのがこのハック・ソンだったのだが、クアン氏は奴がフランス密偵とは知らなかった。出国してから広東に滞在した2人は、 互いに困窮生活を忍び合い、その半年後に共に南京兵営に入営して更に半年間軍事を学んだ。同労共苦の仲だった2人だから、クアン氏はハック・ソンに対して深い信頼を寄せていた。それに、いつも国許の家族から送金が途切れないハック・ソンを信用し、クアン氏が雲南へ行く時もハック・ソンを誘って出発したのだった。ダウ・コ・クアン氏は、フランスによる悪逆な密謀を知らずに殺された。国事への尊い犠牲に哀悼の誠を捧げる。

 彼は、漢文、国語文(=アルファベット化文字)に長け、演説の才能も有った。雲南省へ赴くにベトナム光復会の密書を多数携帯して、雲南到着後は現地の我国人へ熱心に運動を働きかけたので、河口から雲南へ来ていた同国人、例えば鉄道守備兵や通訳書記、炊事夫など合計50余名が挙ってベトナム光復会に入会した。それから間もなく欧州戦争が勃発したので、クアン氏はこの機を狙って在蒙自(もう・じ)ドイツ領事館へ我党への庇護を願い出た。そのお蔭で、我党勢力は益々伸長した。
 そんなある日、クアン氏は鉄道守備隊習兵に頼んで密かに汽車に乗り込み、ハノイへ潜入して習兵長2名と接触した。彼等と関係を結んだのも束の間、突然逮捕されてしまった。彼と一緒に裁判所に引っ立てられたのは、習兵長一名と、書記の蘭(ラン)氏以下雲南在住の我国人総勢約50余名で、全員河口へ連行されて、そこで全員同時に首を刎ねられた。
 クアン氏が組織した我が党の雲南支部は、一網打尽で漏れなく全員が敵の網に捕らえられた。たった一人、フランス密偵のハック・ソンを除いて。 クアン氏は斬首刑に処され、自首を願い出たハック・ソンは無罪放免。更に奴の実長兄であり指南役の阮夏長(グエン・ハ・チュォン)は、なんと見事知県(=県知事)職に収まっ た。
 米粒如きの名誉・職位と引き換えに、愛国者である同胞50余人の命を簡単に奪うことが出来る肚の底からの売国奴ども。私はもう、奴等を人種に類別しあれこれと名称など付ける気力もない。 
 報に拠れば、犠牲になった同胞50人中でラン氏は傑出した人物だったと聞く。彼の来歴を不明とせねばならぬのが残念でならない。

 癸丑(1913)年3月、私は広東で先述の謀計準備を進めていた。もし失敗せば、同居の同志40余名諸とも、革命事業に於ける殉死ではなく餓死が待っている。そんな閉塞感が漂う中で、新手の無心方法を考え付いた。
 はっきり言えば、当時数年間の在外活動は≪文明乞食≫がその生活の実態だったが、 この頃、私がまだ日本に滞在していた時に我が国学生の同窓生だった湖南省出身の張輝瓉(ちょう・きさん)先生のことをふいに思い出した。 中華民国の建国後、張氏は軍属して将軍師長を任じていた。この頃の湖南都督が譚廷闦(たん・ていごん)先生といい、私とは文友の間柄だったから、3月下旬頃にルオン・ラッ プ・ニャム君を同行して湖南省に行った際、縁を得て張先生とも面会することができた。 私は張先生へ、『振華興亜会宣言』と『綱領』の両方をお見せした。先生はこれを甚く気に入り、陳嘉祐(ちん・かゆう)氏ら湖南省の青年兵約10名を呼び集めて私たちを紹介した。すると彼らは、我々に数か月湖南省に留っておれば、湖南全土からかき集めて20万元を寄贈すると言ってくれたのだから、その時の我らの喜び様は言い表せない位だった。
 だが喜びはほんの一時の間だった。まさかその翌日に、世界情勢へ急転動地の変動が起ころうとは。


同族を殺す売国奴とは、実は内側のスグ傍に居る - ベトナム志士義人伝シリーズ⑰杜基光(ダウ・コ・クアン)


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