仏領インドシナ総督メルラン襲撃事件

 1924年6月19日、当時の広東沙面フランス租界のビクトリアホテル(=沙面多維亜飯店)で起こった、仏領インドシナ総督メルランに対する爆弾投下事件の詳細に迫ってみたいと思います。
 事件の前後には、日本も関係しています。
 メルラン総督は、西アフリカ総督を経て、1923年から1925年4月の期間、インドシナ総督に就任しました。
 『ヴェトナム亡国史 他』(1966)に、『1924年(大正13年)5月、日仏親善の為に来日、帰途広東に立ち寄った時に沙面で襲撃を受けた。』とあります。任期の終わりが近づいたメルラン総督は、日本との親善のために経済使節として来朝しましたが、その帰途上で、広東のフランス租界に立ち寄ったのです。このことを、ファン・ボイ・チャウ著『獄中記』日本語版(昭和4年、上海刊行)の邦訳者である南溟生氏は、序文の中でこう伝えています。
 「戦後、仏領インドシナ総督メルランが、大正13年特にわが国に使したのは、両者経済交通の一転機をなさんとの希望に出ずと伝えられ、大正14年山県答礼使一行が彼の地に赴き、植民地官憲たる極小数の仏人に貴賓としての歓待を受けた云々…」
 この時の『山県答礼使』とは、大正13(1924)年5月のメルランインドシナ総督の親善来朝の答礼として、翌年の1月に仏領インドシナに派遣された枢密顧問官山県伊三郎使節団のことです。山県答礼使は、仏領インドシナ各地を訪ねて、同年3月21日に東京に帰着します。これを契機として、関税問題など通商問題がその後日仏間で協議され、1927年8月に『日本国及び印度支那間の居住及び航海の制度を定むる議定書』が交わされた、とあります。しかし、この時の山県答礼使の成果に対して、前述の南溟生氏はこうも述べています。
 「しかも誠しやかに伝えられたる、通商上の公平待遇すら一時の応酬語にとどまって、いわゆる日安通商に関するパリの協議は、事実において停頓を重ね、頑迷なる在インドシナ仏人の極端なる排日態度が功を奏して、両者の順当なる経済交通が、そのよろしきを得べき日の何時になるかは期し難い状態にあることすら、わが国の一般はほとんど相関知しない。」
 要するに、なにやら現代とあまり変わらない、、、様子ですね。。
 政府外交官が外交を行い、外国を訪問。何やら議定書等を結んだそうだ、、などと『誠しやか』に華々しいニュースが伝えられはするけれども、内実が全く伴わず、何の変化もなく、そして西洋人からは相変わらず馬鹿にされているという、、、。しかも、終始一貫して一般国民はそれらに何ら関心を向けない、とは、、、。時期は、大正時代の終わり頃。。。今から100年前ですが!!
 メルラン襲撃事件の詳細は、私の本、ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazon
の第15章『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕』の中で、クオン・デ殿下自身が詳細を語っています。『安南民族運動史概説』の大岩誠氏も、ご著書で事件の説明を書かれています。
 「6月19日、広東の沙面で総督の招待宴が開かれたのを狙って、『越南国民党』の党員たる白面の青年范鴻泰(ファム・ホン・タイ)は爆弾を抱いて会場に潜入し、総督に向かって之を投じた。メルランは辛うじて厄を免れたが、側近のフランス人5人が血祭に挙げられた。范は爆弾を投じてのち、我事終れりと叫んで奔り去り、自ら河に身を投じて死んだ。」

 このメルラン襲撃事件の影響は、各方面に及びました。
 まず、当時中国国内に集まっていた各国の革命家達の間で、ベトナム革命運動が一目置かれるようになったこと。その対応の為に、広州に滞在していたベトナム人同志らと潘佩珠は、新たに『越南国民党』を立ち上げたこと。
 広東政府と中国国民党が、范鴻泰の葬儀を手厚く執り行ってくれた後、広東郊外の白雲路、黄花崗の72烈士の墓の目の前に、范鴻泰の墓を建ててくれたこと。(この72烈士とは、1911年3月29日の広州決起で国の犠牲になった義士のことです。)范鴻泰の墓碑銘は、中国国民党の胡漢民(こ・かんみん)によるもの。(内海三八郎氏の『潘佩珠伝』によれば、題字は同じく中国国民党の鄒魯(すうろ)が書いたとも。)
 そしてフランスですが、北京駐在フランス公使及び仏領インドシナ政府から広東督軍政府に対して、ベトナム人の即時追放と被害者の損害賠償を要求。同時に凶悪犯隠匿の罪を陳謝し、将来再びこのようなことがないよう保証を要求して来たそうですが、広東政府はこれに対して峻烈な言辞を用いて応酬、断乎フランスの抗議を拒絶したと云われています。
 フランス本国政府は、メルランを本国に召還させ、代わって社会民主党の代議士ヴァランヌ(Varenne)を総督として赴任させます。このヴァランヌ総督着任早々の1925年5月に、潘佩珠が上海で捕縛されます。彼の逮捕は、ベトナム抗仏家達に多大なショックを与えました。少なくないベトナム運動家が抵抗運動から離脱したとされ、また新総督が協同政策、宥和政策を執ったために、国内は一時落ち着きを取り戻したように見えました。
 けれども、ベトナム国内では、メルラン襲撃事件の余波で逆に活発さを取り戻します。この頃に新しく登場して来たのが、阮愛国(グエン・アイ・コック)(=ホー・チ・ミン氏の変名以前の名前だとされています。)を首領とする『越南共産党』と、ベトナム国民党の指導者阮大学(グエン・ダイ・ホック)でした。前者の別動隊『越南青年革命党』も激しい活動力を示し、抵抗運動は益々激しくなって行きます。
 そして、昭和4年(1929)春頃から、ベトナム国民党は一斉に行動を開始します。翌年の昭和5年に、有名な北部安沛(エンバイ)事件(安沛兵舎襲撃により、フランス側犠牲者数-フランス将校及び下士官のうち死者5名、負傷者6名。兵士死者6名、負傷者4名。襲撃側犠牲者数-伍長4名、狙撃兵22名、党員25名が捕縛され、叛徒総数600名余り)へと繋がって行きます。これ以後、フランス当局の弾圧は猛烈を極め、党員及び無辜の民の捕縛されるもの数千、死刑、流刑、終身懲役に処せられたものは数百人に上り、土着兵も約400名が刑に服したと云います。指導者の阮大学以下25名のギロチン刑執行は、同年6月16日前後だったと伝えられています。
 


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