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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑳『年表・第三期(1905年~)・中華第二革命の勃発/広東入獄の4年間/ドイツ・オーストリア公使との接触』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判


 中華第二革命の勃発

 国民党軍が袁世凱(えん・せいがい)総統へ攻撃を開始した。湖南周辺の3省に銃器の発砲音が鳴り響き、これを受けて湖南省も即座に宣戦布告するという運びになった。前日に我らと席を囲んだ青年らは、皆一斉に急ぎ早に軍装を整え、戦地へ向けて出発した。彼等の頭には、もう既に軍事以外何も無い。だから我らは湖南省を離れるしかなく、その時僅かに得たのは広東迄の旅賃3百元のみだった。
 想像だにせぬ情勢の急変、全く以て奇妙なる国際情勢よ。幾万有る道は艱難で満ちている。然れども明確なのは、誰かを頼っている間は、ろくな結果は得られないということだ。 我が人生史を彩る悲惨且つ物寂しい出来事の数々も、これ以降に起こっている。

 癸丑(1913)年5月、中華第二次革命が両広(広東・広西)へ伝播した。陳烱明(ちん・けいめい)軍は湖南省入りしたが、袁総統の命を奉じた陸栄廷(りく・えいてい)と竜済光(りゅう・さいこう)が陳軍を迎え撃ち、これにより陳軍は広東を放棄して退却した。代わって、今度は竜済光が広東を支配したが、袁世凱はこの頃、王位略奪を目論んで対フランス外交路線をすっかり変更していた。 このような背景で、陳が去って竜が居座った新広東政府は、我党に対して以前とは丸きり異なる態度に出た。
 先ず手始めに、竜新都督は我党の広東機関を取り潰し、解散させた。その禍を受けて、私は一時周女史の宅へ戻り、更にベトナム人同志達の居住場所として河南省のドイツ人教会所有の建物を借り受けた。この時、フランスとドイツはまだ戦火を開いて無いとはいえ、在中華外交界の間では、両国は近日中に衝突必至という見方で一致していた。実際、私自身で此の噂を聞き及んだこともあり、この時にドイツ人と一つ屋根の下の生活を選択したのは、将来に於ける連携への一計でもあった。
 しかし、こんな計画さえ、強国の妨害に遭い道を塞がれてしまった。もしあの時、数千元の資金が手許に有れば、私は確実に欧州へ行っていただろうし、その後4年間もの長い期間を獄囚の英雄として空しく過ごすことは無かった。これも祖国国内の実力不足の結果であろう。

 広東入獄の4年間

 癸丑(1913)年7月秋頃、アルベール・サロ―が仏領インドシナ全権(=総督)に就任した。その折に、広東を正式訪問して広東新都督の竜済光と会談したサロ―は、この席でベトナム革命党、取り分け最重要人物のクオン・デ候と私、そしてマイ・ラオ・バン氏を殺人罪の嫌疑を理由に引き渡しを迫った。竜済光は、必ず逮捕してフランスへ引き渡すと約束したものの、殺人罪に関する明確な証拠が無かったので即時逮捕が出来なかったが、とはいえ、国際情勢が傾いたからには広東は非常に危険だ、我々は避難の逃走ルートを模索せねばならなくなった。そうはいっても、広東には同志50人が肩を寄せ合い暮らして居り、 その乞食団体の団長の私が真っ先に消えれば、残った彼等だけでは忽ち立ち行かなくなる。資金を手配して、僅かでも持たせて彼等を送り出し、その姿を見届けてから私も直ぐに広東を離れるしかない。
 こんな逼迫した状態だったから、香港にクオン・デ候を訪ねて行き、候に国へ戻って寄進を募って来て欲しい旨を相談した。クオン・デ候はこれに即同意して、8、9月頃に危険を冒してベトナムへ潜入した。そして、滞在期間たったの3週間で、南部同志から義援金5万銀貨を集めた。それから、クオン・デ候は香港へ戻ったが、その途端に英国政府に逮捕されて刑務所へ放り込まれてしまった。結局、弁護士が在外保釈申請を提出して、保証金3千元を払ったことで仮釈放されたが、クオン・デ候は、その足で急ぎ日本籍商船に乗り込んで欧州へ行った。以前から、もし十分な資金を得たら一度一緒に欧州へ行こうとクオン・デ候と話していたが、この時クオン・デ候は一刻も早く危機から脱出する必要があった為に、広東へ寄って私と会う余裕が無かった。その結果、私の欧州行きは成らずに広東に足止めを食って、そしてそれから僅かの後に獄舎の囚人に成り果てたのだった。

 同年の12月24日は、私とマイ・ラオ・バン翁が広東獄へ投獄の憂き目に遭った日だ。それ以前より、フランスから多額の報酬を得ていた広東人密偵で、関仁甫(かん・じんほ)という男が居た。この男は、我が党が陳烔明(ちん・けいめい)氏に内通していると竜済光に密告をした。竜都督は元々小心者で残忍な性格だったから、如何にかしてベトナム党人を逮捕してフランスへ引き渡そうかと模索してた所へ陳氏への内通を耳にして怒りが倍増した。そのせいだったのか、私とマイ・ラオ・バン翁を逮捕した時には我々に手錠を厳重に嵌め、まるで重罪人の様な扱いだった。我らの根城である周師女史邸も家宅捜索を受けたが、幸いその時に発見された証拠文書はベトナム革命党の物のみで、陳氏との関係性を示す文書は出なかった。 周師女史の息子の周鉄生(しゅう・てつせい)氏も抑留されて15日間も取調べを受けたが、一貫して我党と陳党は何の関係もないと言い張った。これで、竜都督もその疑いは解いたものの、我らはそのまま拘束されて陸軍監獄所へ放り込まれた。その理由は、我らを雲南の唐継尭(とう・けいぎょう=雲南軍創設者)軍を攻撃する計画の兵団輸送に備え、フランスとの間で滇越(てん・えつ)鉄道の利用許可を交渉する材料にする為だった。
 しかし乍ら、命運は俎上の鯉だったとは言え、天はまだ我らを見捨てなかった。北京の民国総理段祺瑞(だん・きずい)先生は慈悲深いお人柄で、我党に対する庇護が以前から大変に厚い方だったが、不幸中の幸い、その時梅山(マイ・ソン)先生が丁度北京に滞在しており、広東の同志が急ぎ梅山先生へ電報を打ち、先生から段祺瑞総理に対して我らの救護を願い出てくれるように依頼してくれた。マイ・ソン先生から相談を受けた段総理は、 当時陸軍省長も兼務して居ったので、直ぐ様陸軍省へ命令を発し竜都督へ電報を打たせ、 我ら2人を保護せよと命じてくれた。これにより、竜都督は仕方なく我らを観音山の陸軍監獄へ移し、外部からの接触を一切厳禁とし、更に発見されない様に私の獄舎には目隠しをした上で監禁をした。フランス政府へは、私は既に断罪に処したと伝えた。フランス政府に恩を売りたし、だが北京政府には逆らえぬというので、一方へは死んだ、もう片方へは生きていると伝えたのだった。マイ・ラオ・バン翁は、警察署内に抑留された。

 結局、癸丑(1913)年12月から丁巳(1916)年3月まで、私は4年間も獄舎に監禁された。竜済光が護国軍に破れて瓊州(けい・しゅう)に逃走した時にやっと解放されたのだ。
 この4年間、一度も同国人の顔を見ず、祖国の言葉を聞かなかった。たった一つ幸いだったのは、獄舎の賄夫として働いていた広東人の劉阿三(りゅう・あさん)という友人が出来たこと。私も広東人と自称した為に、お互いに心を許し合う良き友となった。一日一回は彼に周師太邸を訪ねてもらい、外界の我党同志達の情報を獄舎に居る私に伝えてもらった。獄舎内で私が作った詩は、国語(アルファベット化文字)の詩なので、後日編集しようと思う。 獄舎生活で最も辛かったのは、酒が飲めないことだ。稀に一壺の酒が手に入った時は、 天にも昇る位に幸せで、酒のつまみは何と言っても肚中から吐き出す文筆、これに尽きる。
 そんな調子で下記の如き本を書いた。
 『国魂録越南』、『魚海先生別伝』、『小羅先生別伝』、『黄安世将軍伝』、『再生伝』、『仁道魂』、『重光心史』、『愚懺』、『河城烈士伝』、『平西建国檄』
 
 これらは、丁度欧州大戦の頃に書いたもの。これ以外に短編文章も書いたが、ここに列挙する必要もないし、私自身もう殆ど忘れてしまった。

 甲寅(1914)年7月、入獄して既に8カ月が経過した頃。毎日阿三氏に新聞を買いに行かせ、彼に読んで聞かせていたが、或る日の『国民新報』の大見出しに、≪欧州戦雲起矣 ≫の文字が目に飛び込んだ。早速に記事を読み終えた私は、この世界情勢に乗じて我が祖国に驚天動地の暴動を起こそうぞ、と獄中で息巻いた。
 獄中に万来の拍手、有りや否や。

 そしてこれ以後、私の元へ悲報、凶信が続々と送られて来たのだった。

 

獄中に届いた悲報

 私が獄中に在ったこの4年間に、国内無数の愛国者が男女の別なく国の為、民族の為に次々と首を刎ねられた。それに比べ天の悪戯か、私は幸いに生き延びた。
 この時期に獄中へ聞こえた同志達の凶信を書き出して置く。

◎梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)、香港で逮捕
◎陳有力(チャン・フゥ・ルック)、タイで逮捕
◎黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)、広西で失敗、香港で逮捕
◎杜基光(ダウ・コ・クアン)、雲南で失敗、ハノイで殉死
◎林徳茂(ラム・ドック・マウ)と阮忠(グエン・チュン)教師。タイで逮捕、ハノイで殉死
◎阮仲常(グエン・チョン・トゥン)、帰国時に逮捕
◎ホアン・チョン・マウとチャン・フゥ・ルック、ハノイで殉死
◎維新(ズイ・タン)帝、革命失敗、流刑
◎南昌蔡蕃(ナム・スォン=タイ・フィン)先生、殉死

 南昌蔡蕃先生は、熱血漢であり経済の才を持った大義の人だった。グ・ハイ氏、テウ・ラ翁と同じく長年に亘って我党同志たちを縁の下で支えてくれた。己酉・庚戌(1909- 1910)年頃には、国内我党人はもう殆ど残って居らず、タイ・フィン先生一人で奮闘してくれ、維新帝の蹶起には我党軍を率いて戦ったのだった。

 獄中に続々届いた凶信に悲憤極まった私は、己如きが一人生き永らえて何になろうかと食を断って死ぬつもりで断食に入ったが、その7日目に欧州開戦の報が耳に届いた。この知らせに喜びを得て、再び食事を摂りまだ生きようと決心した。そうとは云え凶信は本物、吉事で帳消しされる訳ではなかった。
 獄中で、同志への哀悼詩文を沢山作ったが、覚えて居るのは以下のみ、
≪頭恨不先朋輩断 心難並興国家亡 江山剰我支残局 魂夢随吾渉遠洋≫
 
 獄中で聞いた出来事は、書き留め置きたい事が山ほど有る。民族の模範として語り継ぎ、永遠に忘れてはならないことばかりだ。

 

ドイツ・オーストリア公使との接触

 乙卯(1915)年9月、獄中で悶々としていると、不意に阿三(あさん)が私へ密書を差し出した。開けて見ると、ダン・トゥ・キン氏の筆跡に間違いなく、タイから広東に戻って来たとあり、こんな内容が書いて有った。
 在タイドイツ、オーストリア両国公使が、ベトナム革命党の情勢を知る目的で、農場設立に骨を折ってくれたタイ親王を訪ねた。親王の紹介を得、ダン・トゥ・キンが両国公使を訪問し面会すると、両国公使は喜んで彼を迎え、ベトナム革命党を援助したい意向を示した。しかし、援助の前に我ら側の領主と一度直接面会をしたいという。その当時のタイでは、ファン・ボイ・チャウとクオン・デ候の事は知れ渡って居り、両国公使の耳へも届いていたので、両国公使はダン・トゥ・キンへ広東へ飛んで2人を探して連れて来なさいと言った。 そうは言っても、その時クオン・デ候は欧州滞在中であり、ファン・ボイ・チャウは獄中で捕らわれの身。結局ダン・トゥ・キンは、どうすれば良いか判らずに広東獄の私へ手紙を寄越した。手紙を読んでから、私は、丁度梅山(マイ・ソン)先生が北京から広東に戻ってきたことを思い出したので、先生に党代理としてタイに行ってもらうことにした。先生はまだ一度もタイへ渡航したことが無かったので、私からタイ親王宛てに紹介状を書き、これをダン・トゥ・キン氏に持たせて先生に同行させて、タイ親王に謁見した後に、親王から両国公使へ紹介して貰うよう書き置いた。
 このタイ行きの顛末は、ダン・トゥ・キン氏とマイ・ソン先生2人から聞いた話をここに書いて置く。

 タイに到着し、親王の紹介で両国大使との面会に行った2人は、その当日在タイドイツ公使館に到着して、ドア前に待ち受けていた門衛に名刺を渡した。すると、間髪を置かずに両国公使がドア外まで出て来て2人に握手を求め歓迎の意を表し、そのまま散歩に誘われた。そして、歩いて人気の無い所まで来ると、公使は財布から一万タイバーツを取り出して、マイ・ソン先生とトゥ・キン氏に金を渡しながらこう言ったそうだ。
 「貴殿たちを援助したく存じますが、未だその機が熟しては居りません。この一万バーツはコーヒー代と申しますか、貴国とのお近づきの徴しです。もし貴殿らが貴国国内で何か大きな影響を巻き起こし、我々両国にその報が伝わるなら、我々両国政府は当然に貴殿らを援助致します。その時、百萬単位の金が届かなくて何を援助と申しましょう?今日の僅かの金は、我々の愛国心を信じて貰う為であり、我々政府の意によるものではございません。」

 こうして、我ら側の2人は金を受け取って広東に戻ったが、これが大きな失敗の元凶だったことは後述する。
 
 この出来事は、地味ではあるがドイツ国の援助精神を如実に表していると云える。腐文を好まず、無駄話を省き、我党人を探し求めて一万バーツを気前よく捨てる。人気無い場所での会話、金を渡し信用させ、国内暴動を起こして影響拡大せば、更に大きな資金援助を与えると我ら側に希望を持たせた。国家の意を含んだ上での細心の外交手段。国事に重点を置き、外国人と接触する。銅鑼も檄も全く使わない彼らのやり方と比べ、我党人の一体何人が真似出来るだろうと考えて一抹の寂しさを覚えた。
 
 取敢えず、広東に一万タイバーツがやって来たのでこれを3分割した。
◎傘阮(タン・グエン=阮孟孝)翁へ、東興(ドン・フン)からモンカイ方面への進攻費用
◎マイ・ソン先生が龍州へ持ち込み。ラン・ソンからの攻撃費用
◎雲南のホアン・チョン・マウへ、河口への進軍資金

 一万バーツは支那の通貨にするとたった8千元であり、これを分割したのでは効果は薄い。だが、分割進攻の奥意は二次的な目的だった。

 結局、ホアン・チョン・マウはこの分割資金を受け取らなかったので、代わりに武敏建(ブ・マン・キエン)とグエン・ハイ・タンの2人がこの資金を受け取って、同志10名と共にラン・ソン省側国境付近のフランス営舎へ攻め入った。その時の負傷者は巴門(バ・モン)という名の同志一名だった。
 ラン・ソン攻撃は大失敗し、ホアン・チョン・マウ氏は雲南から広西へ、そして、そこから香港、タイへ移動し、最期に殉死する迄に幾つもの失敗が重なった。この時の資金分割も原因の一つであったろう。
 一つ党内で派閥に分かれ、資金を分割することは、国事を破滅させる最悪の害毒だ。 我々はこの失敗から学ばなければならない。

 丁巳(1917)年3月に竜済光(りゅう・さいこう)が敗北し、広東を放棄して瓊州へ逃げた。私はそこでやっと解放されて、支給された2百元を手に瓊州から広東を目指した。とうとう4月に広東に到着し、真直ぐに周師邸へ転がり込んだ私を見た周師女史は、“ここ最近、特に今月に入ってからフランス密偵が来ない日は無いよ”と教えてくれた。要するに、竜が広東を去ったから、当然私は脱獄をしたと睨んだフランスは、用意周到に密偵網を張り巡らしていたのだ。だから、広東では一晩身体を休めただけで翌日上海へ移った。上海には英国租界もフランス租界もあり、当然だがフランス側の密偵が沢山居るから長居は無用だ。直ぐにマイ・ソン先生とホ・ビン・ソン氏の居る杭州へ向かった。

 その頃、クオン・デ候を追って日本に滞在して居た黎余(レ・ズ=黎楚狂)という男から私へ手紙が送られて来た。手紙の内容は、手元に2千元の資金があるから急ぎ日本に来て欲しいと書いてある。少し前に奴は敵側に寝返った筈だったから、金の出所を考えても大体答が解る。だが、当時私の頭には、愚にもならない考えがあった。

 当時は欧州大戦が3年目に突入し、いつ決着するか未だ解からない状況だった。フランス北部の9つの県が全てドイツ軍の手中に落ちたというニュースが支那メディアに入って来た為に、私の心は浮足立ち、この機に祖国へ戻ろうかと気が急いた。その頃は広東・広西ルート両方共に完全に塞がれており、唯一雲南ルートだけがベトナムへ通じる可能性があった。加えて雲南省は、私の旧友たちが政府要職に就いている。そう思うと、私の心は勇躍して、多少無理してでも雲南を目指すことにした。旅費を計算して見るとざっと1千元だったから、この時、丁度レ・ズから資金の話を聞いて、これを利用しようと心が動いたのだった。また、その頃の同時期にチャン・フウ・コン氏から受け取った手紙にはこんな内容が書いてあった。
 『日本軍参謀部の計画する対ドイツ宣戦布告は真意ではなく、彼等の狡猾な手法だ。 形勢を観望しつつ両者が疲弊するのを待ち、2匹の虎を一気に仕留めるつもりだろう。別の日本要人の話では、日独は互いに協約を締結しようとする動きもあり。もしこれが実現すれば、情勢は一気にひっくり返る可能性がある。』

 この報告を得たので、私はどうしても日本へ行きたくなった。外見上はレ・ズに会う為だが、内々には犬養毅翁や福島安正翁ら日本要人と面会して、直接日本の対ドイツ外交の真意を確かめたかった。
 こうして、私は日本へ向かったのだったが、結局この時の滞在は4カ月にも及んだ。理由は、レ・ズが二千元を一度では無く毎月少しずつしか渡さなかったからだ。結局7月になって漸く合計千元を受け取った。一日でも早くベトナムに行きたかったから、もうそれで十分だった。7月、チャン・フゥ・ルック氏を同行して杭州へ戻り、胡馨山(ホ・ヒン・ソン)宅に逗留すると、そこに張国威(チュォン・クオック・イ)氏と黎揖遜(レ・アップ・トン)氏2人からの手紙が届いていた。 レ・アップ・トン氏は、ベトナム光復会設立直後に出洋し、その後暫く広東で私と同居していた。光復会の解散後は北京へ行き、士官学校卒業後も北京に留まって居た。チュォン・クオック・イ氏も同様だった。

 欧州大戦時、北京で対ドイツ工作に奔走していた2人だったが、在北京ドイツ公使は静観の態度を維持していたので、大した成果は得られなかった。そのうち局面が変わって中独国交断絶となった為、天津租界の或るドイツ人がベトナム革命党の人間を捜すようにドイツ公使に嘆願書を提出したという。2人の以前からの知り合いだったこのドイツ人は、越独両者で話し合った内容を、必ず何かしら契約書を作成して両者署名せねば意味が無いと言ったそうだ。そこに至って、クオック・イ氏とアップ・トン氏は私へ手紙を寄越したのだった。2人の手紙には『チャンスだから北京に来てほしい』と書いてあったが、この当時、私の心理は籠を怖れた鳥の如くになって居たので、ただ、『一旦落ち着いて考え、まず2人が ベトナム革命党代理の肩書を以てドイツ人と交渉せよ、もし両者で契約書を起草し、その内容に両者共同意であれば、その時は私が現地に行くことにしよう。』と返信を送って置いた。私からの返信を受け取ったアップ・トン氏は、天津へ行ってドイツ人と面談を重ねたが、ドイツ人曰く、
 「現在、中独は宣戦布告したので、私は早晩中国を離れねばなりません。ここに残していく軍機も現金も、近日中に中国政府に没収されるでしょう。貴兄らが仏領インドシナで義を起こすつもりならば、貴兄らの党へ全て援助しようと思う。しかしそれには、後日の交換利益に備えて規約を作成し、これにご署名願いたい。」
 
 こういった主旨だったので、2人は黄廷珣(ホアン・ディン・トゥアン)や鄧鴻奮(ダン・ホ ン・ファン)等の在北京の同志たちを集めて、ドイツ側の条件を斟酌して何とか契約書を起草した。こうして出来上がった契約書内容に関して、ドイツ人と話し合いをする為に天津に向かったが、天津英国租界に入ってからその先のドイツ租界に到着する前に突然英国軍に拘束された。そして、持ち物検査でその契約書を取り上げられ、それを英国領事館か らフランス領事館へ渡されてしまい、アップ・トン氏は逮捕された。少し後ろを歩いていたクオック・イ氏は逃走して難を逃れた。アップ・トン氏は、ハノイへ強制送還されて裁判での罪状はドイツ通牒罪、裁判判決は終身留獄刑。後日そのまま獄中で死んだ。 後日調べて判明したのは、この事件で3千元の報酬を得ていた雲南人フランス密偵の存在があった。この雲南人は潘伯珠(ファン・バ・ゴック)の親友であり士官学校の生徒だった。
 私は、元々雲南から祖国へ入国する予定でいたが、そこへクオック・イとアップ・トン両氏の手紙を受け取った為に1カ月余も動けないでいた。しかし、天津から凶信が聞こえたため、これで直ぐ様帰国準備に入った。

 昔から雲南へ至るには2つルートがある。一つは陸路で広東・広西から我国北圻ハノイ領地へ下り、滇越鉄道を使って雲南まで行くルート。もう一つは水路で上海、南京から湖北省へ出て、ここから陸路で四川省、桂州を通って雲南へ出るルートだ。広東・広西ルートが最短だが、危険だから避けねばならない。上海、南京ルートは時間が掛かるが、必ず通り抜け出来た。

 8月上旬、私とチャン・フゥ・ルック氏の2人は、密かに杭州を離れた。上海租界を避けて水路を使って蘇州まで行き、ここで汽車に乗り込み南京に到着した。南京からは船で長江を遡って湖北、湖南両省を通り過ぎ、宜昌(ぎ・しょう)に着いた。宜昌で乗り換え船を待つこと一週間。この頃は、南北両軍の戦いが継続中で、南軍の支配下にあるのは虁州(きしゅう)以上、北軍支配下にあるは宜昌以下であった。戦時下では運河ルートは難しさを増す。だから、北軍総司令呉光新(ご・こうしん)に面会して通行証を発行してもらい、 民間船を雇ってなんとか虁(き)府へ到着した。この地から四川に入ればもう南軍支配下の最重要拠点だった。
 ここで我ら2人は、実に奇妙で可笑しな出来事に遭遇した。
 
 虁府に到着した我らは、南軍総司令へ到着の伝令もまだだったが、取敢えず平屋建ての旅館に部屋を取った。旅館の館主によれば、この近くに白帝城(はくていじょう)があると言う。中国史を知る私は、聞こえ名高い白帝城、蜀先主殿の武候廟を思い出して興奮し、是非史蹟を見に行こうと、フゥ・ルック氏と2人で白帝山を目指して歩いた。
 そうして、山の麓に着いた時、そこに南軍の巡哨兵が居り、我らの話す言葉が四川方言で無いことから怪しまれて呼び止められた。巡哨兵が身体検査すると、我らが呉光新(ご・こうしん) 発行の通行証を所持していたので増々怪しまれてしまい、その場で緊急逮捕されて総司令部へ連行されたのだった。
 時の総司令部長は王天縦(おう・てんじゅう)であり、彼は、我らを軍法理に引き渡して厳重なる検査を申し付け、更に我らの目の前で衛兵に断首用の刀を研がせて見せ、我らが怖がるかどうかを試していた。幸いに、この時の南軍に知人の河海清(か・かいせい)氏が司長をしていたので、河司長へ救済を願い出た。そうして、拘束後約一時間が経過した頃に河司長から釈放申請書が届いたので、王部長はやっと我らを解放して旅館まで送り届けてくれた。だが、旅館に着くと、我らの荷物は既に検閲を終えていた。
 小さな好奇心が大きな危険へ変わった。あれも、天の悪戯か。

 四川省の中央部は土匪が多く跋扈する土地で、当時は軍令も乱れていた頃だったから、 人々の往来は著しく困難だった。旅館の主曰く、
 「お前さんら、大軍が通る時に着いて行きなされ。そうでなければあっと言う間に土匪に襲われるぞ。」


本の登場人物・時代背景に関する補足説明(12)
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(11)



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