「安南民族運動史」(2) 

 「ここに注意すべきことは、フランスの援軍が来る前に既に南部地方、越南人の所謂「南圻(ナンキ)」は彼等自身の手兵によって恢復していた事実である。フランス勢の到着によって中圻(チュンキ)、北圻(バッキ)即ち中北部地方の奪回は早められたことは事実に相違ないが、世人が一般に考えるように、ド・べエーヌの力によってのみ始めて反徒の征服と祖国の恢復をなし得たとは言い得ない。この政僧の援助は寧ろ志気を鼓舞するに役立ったのみであると言うべきであるから、フランスが斯くの如き些々たる援助を盾にし、嘉隆帝の友情を政略的に利用して越南帝国の国家としての成長を阻害し、遂にその国の生命を断つに至った事実は、アジアの近代史中、イギリスの印度及び支那侵略等と相並んで特に注目すべき事柄である。」


 「嘉隆帝の代には、帝の親仏感情によってフランス人は大きな政治力を持ったが、帝が没し景(カイン)皇太子も前後して世を去り、帝の第4子明命(ミン・マン)帝が帝位を継ぐと、越南の民族精神を固辞して儒教文化に生きる側近の官人と共に攘夷策を実行し、フランス伝道師は悉く国外追放された。」


 「その間フランスでは大革命後の動乱に暫くアジア侵略の手を緩めていたが、のち、ナポレオン3世の世になると再び攻勢に出て、恰もスペインの伝道師ディアスが殺された事件を捉え、安政5年スペインと提携して越南の要港ツーラン(=ダナン)を陥れたのを切っかけに、慶応2年には交趾支那(コーチシナ)を完全に手中に入れ、明治6年にはハノイを、15年には清国の黒旗軍が越南を扶けたのを理由として清仏戦争を起こし、遂に翌16年、越南を保護国にしてしまった。かくて此のアジアの一国は事実上フランス植民地の一部となり、国名も嘗ての国辱を思い出させる「安南」に代えられた。
 ここに越南人の祖国恢復の義挙が相踵いで起こり、フランス70年の統治は、此の澎湃たる民族独立運動の波との戦いに終始して今日に至ったのである。」


 「フランスは僅かな援助を楯に深く根を張り、国内体制を整えた後に列強に伍して来襲した為に、遂に嗣徳(トゥ・ドック)帝の治世に越南王室は主権を失うに至る。」


 「明治16年フランスは安南保護条約を強制的に締結し、ド・クルシイを安南統監に任命。第8代咸宜(ハム・ギ)帝に謁見を求め千名の兵を率いて首府フエに乗り込んだが、これにベトナム皇軍が夜襲を掛けて、激戦ののち越南軍は撃退されて皇帝は広治(クアン・チ)に脱出する。その後、皇帝は全国に檄を飛ばして義士の奮起を促しつつ、帝側近の部将もまた各地に転戦した。飛檄に応じて起こった勤皇の諸将士豪及び官人たちは全国到るところに蜂起して、フランスの支配に対する激しい抵抗を続けたのである。」


 「フランスの歴史家は此の義挙を以て匪賊の暴挙として取り扱っているが、言うまでもなくそれは歴史学の政治性を如実に示している一例に過ぎない。千年に亘る永い伝統と文化を持つ越南人のうち、特にそれらのものの護持者だった諸将など政治担当階級が抵抗したのは、外夷に抑圧される王室を復興する勤王攘夷の精神によるものであり、この義軍が上層階級が中心となって組織せられ、数年の間、勇敢に戦われたのは民衆の大なる支援があってのことと容易に推察し得る。
 フランスは此の広汎な国民主義精神の昂揚に直面し、武力を以て弾圧に狂奔する。越南人の言を借りて言えば、全く禽獣に対するがごとく傲岸な態度、徹底的な惨虐性を発揮して只管武力による弾圧にのみ没頭した。


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