仏領インドシナ、ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その②(再)

 その①仏領インドシナのドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再)|何祐子|note からの続きです。

 南支那方面軍の第五師団が、「欽州湾上陸後、援蒋ルートの大拠点南寧を陥落」させますが、その説明がこれです。⇩

 「南寧は援蔣路の大中心だ。鎮南関から国境を越えて行くトラックは一カ月千数百台に達する。広州湾から雷州半島に陸揚げされた物資もすべて南寧を経由して行くのだ。北海、錦州湾から上がる物資もクリークづたいに南寧に進められ、それから桂林へ貴陽へ重慶へ行くのだった。」
              
『包囲された日本』より

 蔣介石国民党重慶政府への英米援助を止めさせる為に、精鋭部隊を投入し、援蔣ルートの大拠点である南寧をまず陥落させた、『南寧作戦』です。

 中村明人中将は、「南支方面軍第5師団師団長」を拝命します。中村明人中将は、広島県ではなく愛知県出身。陸軍大学校の教官でもあり、多くから『父のような存在』として慕われる人柄だったそうです。中村明人中将の師団長就任で、兵の士気も更に高まったことと思います。

 まず一番はじめに、中村兵団の「先鋒部隊」が鎮南関北方を占領しました。先発部隊は、
 「戦闘指令所を慿祥に置き、その先鋒の歩兵第21連隊第3大隊(大隊長・森本宅二中佐)が、29日鎮南関を占領」したのです。
             
『鎮南関をめざして』より

 それから、「陳忠立ら約8名のベトナム人」「南寧の第22軍に合流」します。
 「この時に、建国軍の顧問、氏原進と増井準一は、7月20日に山根道一の指示で南寧の第5師団の軍属として軍用機で南寧に飛び彼等を待っていた」そうです。          『安南王国の夢』より

 この時、第五師団の参謀長だったのが、「長勇参謀長(大佐)」です。長大佐とは、
 「陸軍の革新派将校として三月事件などのクーデター未遂事件に関わった桜会の長勇大佐。」      『大川周明 アジア独立の夢』より 
 「大アジア教会理事でもあった。」        『将軍の真実』より  

 この長勇参謀長に関しては、牧久氏の『特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し』に詳しいです。大東亜戦史上の仏印の大事なポイントかな、と思うのですが、『福岡の修猷館』のご出身です。余談ですが、めちゃくちゃ男前です。。😊😊😊

 中村明人師団長は、「車両部隊と共に南寧から鎮南関へ進発」しますが、これより前には、
 「9月16日から一週間置いて9月21日の24時(21日午後12時)までに、これこれの条件に満足な回答を与えろということを仏印側に要求したのであります。」   『外交長際会席上 久米正雄講演』より 
 というような、外交レベルでの事前交渉が行われていました。

 「ランソン占領」の直前の様子は、
 
 「遂に12時が来た。向こうでは既に戦車壕を掘って居りますので、(中略)彼等は最初ドンドンと撃って来たのであります。この2発の銃声がいわゆる不幸なる衝突の初めでありまして…」
 「仏印側の将校を連れて日本軍と停戦をさせようと思って仏印側から日本軍の方へ行ったところが、いきり立っている日本軍の前線は中々そういうことを許しそうもなく、(中略)日本軍の前線の将士はその仏印将校を殺そうとして銃剣を突き刺そうとして困ったので、小池大佐がその前に立ちはだかって止めたら、小池大佐の肩越しに仏印将校に痰を吐きかけた。(中略)しかしその協定があったのに拘わらず仏印側が抵抗したとは何事ぞというので、我が兵団に於ては抵抗の故を以て追撃を開始すべしという追撃命令を出し、ランソンに向って堂々と追撃を開始したのであります。」
       『外交長際会席上 久米正雄講演』より
 と、やはり戦場ですから、このような荒々しい感じだったようです。。  

 因みに『鎮南関(ちんなんかん)』といいますのは、⇩
 「中国広西省とベトナムの国境の、中国領側の町。現在は、友誼関と呼ばれている。」『獄中記 注』より  
 「鎮南関(毛沢東時代の友誼関)は、約2千年前、伏波将軍馬援の遠征軍、600年前には、元の大軍がベトナムへ侵入する時に通った国境の関所」           
                
『潘佩珠伝』より
 
 中村中将は、ドンダン・ランソン進攻後、処分を受けて「第五師団の師団長職を解かれ、兵団もランソン地区警備を終えてハイフォンより仏印を離れ」ることになります。この経緯というのがこちらです。⇩

 この時の陸軍大臣東條英機陸相は、
 第五師団が「大本営首脳としては予期せざる戦闘を惹起」したため、「東條陸相及び大本営首脳の甚だ遺憾としたところ」であるとして、
 「大本営陸軍部は早くも9月26日、陸路(海路進駐もあります。)進駐した第五師団の仏印よりの撤退を発令」します。
 それを受けて、中村師団長は昭和15年10月16日に、阿南陸軍次官より「第五師団長を免じ参謀本部付仰せつけられる」発令を電報で受け取ったのでした。。左遷です。

 「南寧を出てから11日目、270キロばかりの強行軍であった。途中では数か所の激戦があり、雨にたたかれ泥土にまみれて、兵隊の服装はぼろぼろになっていた。」

 『包囲された日本』の中で、こう⇧表現されるような、凄まじい歴戦の兵団の活躍による『ドンダン・ランソン攻略」は、結局、大本営によって、「平和進駐途上の不幸なる衝突」発表となってしまいました。。。

 10月16日、仏印を離れる中村師団長は、兵団全将兵に別れの言葉を送ったそうです。

 「皆さんに一言別れの言葉を申します。(中略)…南支最南の地で炎熱の全期を通じ対支、対仏印作戦にお互い生まれてはじめての耐熱の試練を、しかも瘴癘(しょうれい)の地に体験しつつ、日夜生死苦楽を共にし明浄和親一致団結、愉快に御奉公が出来た事を衷心感謝いたします。ほんとに皆さんは中村を助けて働いて呉れました。今回の歴史的仏印進駐が最少の犠牲で最大の効果を成し遂げられた事は全く皆さんの奮闘の賜であります。」                       「この喜びを私は皆さんと共にしつつ今後行動することが出来ず、南国の秋の盛りを後にして一人帰るのは誠に淋しいことでありますが、生くる者には死あり会う者には別れがあることは天命であり、況や私の場合は大命であります。」

 『鎮南関を目ざして』のご著者、伊藤桂一氏は、こう述べています。

 「また、中村第五師団長が何故精魂こめて、『仏印進駐の真相』なる手記を書かざるを得なかったか、さらに、軍上層部のものの考え方、加えて、上級者への態度と下級者へのいたわり――等々の裏面事情がおのずと解かれてくる」

 この中村師団長の手記『仏印進駐の真相』(昭和30年)の中の、中村明人師団長の言葉と、その手記の巻末に収録されていた、仏印を去る師団長が部下将兵から贈られたという和歌(400首)から一部を抜粋させて頂いて、この記事を終わりたいと思います。

 「「平和進駐途上の不幸なる出来事」として発表したこの事件は、意外な大波紋を軍最高統帥に巻き起こし、遂に陸海軍統帥部を一新せしめ、(中略)何故か、事件直後は異例の捜査処置を命じた東條陸軍大臣、しかもすばらしい決断力をもっている大臣がこの問題に関しては、決心を躊躇して居られたのみならず、時に苦悩の色さえ見えた。蓋し進駐後明瞭になった如く、森本中佐の進出地点は明らかに支那領で越境は成立せず、全く仏印側の謀略にかかった様なものであった事が確認せられ、陸軍刑法の抗命にも擅権(せんけん)にも当たらず、従って軍法会議にかける要もなきに至ったからである。」
 「承詔必謹眷々(けんけん)として上司の命を遵奉し、一意作戦に従事した兵団の長として、此の奇怪なる作戦は、其の真相を明かにせざれば、光輝ある皇軍崩壊の前奏曲なるべきを深慮し、其の真相調査を「ランソン」攻略後、阿南次官及び沢田次長に電請し、之に応じて派遣せられた鈴木宗作少将より、中央部上司は最初より我が兵団を仏印に進駐せしむる考は毛頭なかったと聞き、唖然たるものがあった。」
 「是に於て予は、何れの日か皇軍の為、本作戦の真相を手記し当路に上申し、今後の教訓たらしめんと欲し一切の記録を保存した。然るに其の好機なく、陸海最高統帥部は参謀総長、軍令部総長以下更迭せられ越えて一年、遂に大東亜世界大戦に進展し交戦4年、世は桑滄の変に遭い光輝ある皇軍は潰滅した。」

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別れの辞述べて帰ります師団長ありし面影の彷彿とする 

慈父として仰ぎし人の去り給ふ心をさぐる秋風さびし

師団長還り給ふと訣別の曲を奏づる虫の音聞ゆ

秋立ちて思はざりけり師団長の戦野去ります日のあらんとは

仏印の実のりの秋を後にして我が隊長は独り去ります

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仏領インドシナのドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再)|何祐子|note

   


 


 


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