満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』③ ~安南の内乱より統一までのフランスの勢力扶植
次いで両国交渉史に現れたのがピエール・ジョセフ・ジョルジュ・ピニョ―である。彼は1741年11月2日、アイズヌ地方の片田舎オリ二アン・チェラシュに産声を挙げ、「外国伝道研究所」に入所、1765年フランスを去り、交趾支那(コーチシナ)に向かった。時恰も安南王国に於いては内乱に依り国内悉く乱れ、運命の神は誠実な神の使徒たるべきピニョ―に、思いがけずもフランスのインドシナ征略史の第一頁を飾る主要人物たるべき役割を与えたのである。如何にしてピニョ―がこの役割を演じたかを述べる前に、先ず原因となった当時の安南の国情を述べて見よう。
16世紀末、叛臣莫(マク)氏を滅ぼし王権を再び得た黎(レ)王朝は、その社稷建設のとき大いに力あった鄭(チン)氏、阮(グエン)氏を輔政として南北を施政せしめていたが、その後阮氏は鄭氏二世鄭松(チン・トン、1569‐1570)が黎氏を擁して交都(=ハノイ)に都せるに対抗し、阮氏一世阮瀇(グエン・ホアン、1558-1613)がチャンパの旧地を併せ、国名を広南(クアン・ナム)と号して順化(ユエ)を都とし、ここに安南は所謂南北朝の対立時代となった。
両王朝の対立すること180余年、黎氏は徒に虚器を擁するに過ぎず、北部インドシナの実権は鄭氏の掌握する處となっていたが、鄭氏はなお足りずに、南部インドシナを占める阮氏を滅し版図を統一せんとの意図を抱くに至った。当時阮氏の声望は地に落ち不穏の形勢あるに乗じ、鄭氏は野心鬱勃たる阮氏の一族阮惠(グエン・フエ)、阮岳(グエン・ニャック)、阮慮(グエン・ル)の3兄弟を煽動して叛乱を起さしめた。この計画は見事図に当たり、1773年、グエン・フエら3兄弟は、西山(タイ・ソン=中部)に於いて叛旗を翻した。所謂「西山党の乱」が之である。
叛軍起つと見るや、鄭氏は阮氏救援の名で南部に兵を出した。前門の虎、後門の狼という悲境に陥った阮氏9世惠王福順(1765-77)は、1774年に追われてサイゴンに身を隠した。一方阮岳(グエン・ニャック)は、鄭軍を迎えて臣下たるを誓ったが、鄭軍引くや、1776年に「交趾支那王」たることを宣言し、更に福順を捕らえてサイゴンへ送ると、その勢は旭日昇天の感があった。
一方北部トンキンでは、1786年12世鄭棟(チン・カイ)の没後、遺子2人の間に王位継承の争いが起こって居た。グエン・フエはこの隙に乗じて1787年トンキンを攻めて之を滅ぼし、空しく王座を守る黎氏26世献宗維瑞(ヒエン・トン1740-88)の摂政となったが、翌年王が薨ずるや忽ち牙を現わして新王を攻めた。新王は清国に救いを求め、叛臣グエン氏3兄弟は、兎も角国内を統一に成功した。
さて、先に領地を追われた阮氏一族は、その後如何なる行動に出たか。福順の死後、遺臣はその正統の王たるべき弱冠17歳の阮福瑛(グエン・フック・アイン)を擁してサイゴンを逃れ、カンボジア国境のハ・ティンに身を隠していたが同地でグエン・フック・アインは、是また「西山党の乱」の難を避けたピニョ―と会見したと云われている。
兎も角ピニョ―に励まされたグエン・フック・アインは、タイに入りタイ国王プラヤー・チャクリー(1782-1808)に救いを求め、一旦之が応援により勝利を得たが、1783年以降は西山党に敗れ、転々として身を隠し、カマウ岬に於いて奇しくもピニョ―と再会した。ピニョーはグエン・フック・アインにフランスに援助を求める様勧めるが、これは受け入れられず、やむなくピニョ―は同地を去りタイへ行った。1784年1月頃、シャム湾の小島プロパンジャン島で両者は再び相見えた。
斯くてそれまで単に宗教的、通商的に結ばれていた両国の関係は、漸く政治的色彩を帯びるに至ったのである。
グエン・フック・アインは重臣と協議の結果、ピニョ―の勧めを入れてフランスの援助を乞うことを決意し、廟議に於いて決定した条項は、アドラン司教ピニョ―に交渉を一任することに加え、当時僅か6歳の雅き王子景(カイン)をピニョ―に托してフランスに送ることとした。
使者ピニョ―と阮家の嫡嗣カインの乘った船は、フランスに到着した。遠来の王子はフランス上下の同情を惹き、ピニョ―の行動は称賛の的となった。彼は種々努力の結果、ルイ16世(1774-93、ブルボン朝)に謁見を許され、彼はその懇請が正義に基づくこと、遠征は容易に成功すること、遠征成功の暁はアジアに於いてフランスの占める商業上の利益になることを力説した。遠征に対する賛否は両論あったが、兎も角1786年11月28日、ヴェルサイユ宮殿に於いて仏・安南攻守同盟が締結された。
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2,フランスは歩兵千人、砲兵2百人以て組織する編成軍及び帆足戦艦4隻を派遣す
3,フランスに対し、ツーラン(ダナン)及び之を形成する島嶼を譲渡す
5,コン・ロン(コン・ダオ)島をフランス王に譲渡す
6,コーチシナに於けるフランス臣民に対する商業の独占権を認める
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同盟締結がなり、その一カ月後にピニョ―はカイン王子を伴いフランスを出発してインド洋沖のポンヂシェリー島に到着したが、インド総督コンエイがインドシナへの出兵に同意しない。そこへ、グエン・フック・アインから、グエン軍が次第に旧地を回復し、1788年6月にサイゴンを奪還したという吉報が届いた。ピニョ―は、「さらば我一人で遠征を行わん」と決意し、義勇軍編成に着手した。この義勇軍は、同月28日に阮軍の歓迎を受け聖・ジャック(ブン・タウ)岬に投錨した。
援軍来着で阮軍の士気増々昂り、完全にコーチシナを征服し、更にトンキンに於いてグエン・フエ死後の内乱が発生した隙を突いて北部政略の軍を起こした。この頃、ピニョ―は来るべき国内統一の日を見ずして1799年10月に死亡、数奇な一生を終えた。
ピニョ―を葬ってから、直ちにグエン・フック・アインは軍を北部に進めて1800年遂にトンキンを征服し、1802年6月1日国内統一を宣言し、嘉隆(ザー・ロン)王と名乗り、順化(フエ)を都とした。
大安南王国を建設したザー・ロン帝は、その征覇に力あったフランス人を非常に徳として之を歓待し、一方彼等の援助を以て政治、経済の再組織に乗り出し、又所謂「嘉隆法典」を編纂する等、その事蹟は偉大なるものがあった。
この成功を見たフランスは、再び通商を開始せんとし、1817年外務大臣の後援の下にボルドーの船舶が久し振りにダナン湾を訪れたのを皮切りに、1818ー19年の2年間に数隻の船舶が相次いで投錨するに至った。この機に、ピニョ―と共に活躍した士官の一人、シェニョは、帰国してルイ18世に謁見し、安南王国の現状を説明した。彼の報告に基づき、フランスはベトナムに領事館を設置すべく、シェニョを最初の領事に任命したので、シェニョは1821年領事の資格及び仏・安南通商条約締結の任を帯びてコーチシナに着いた。しかし、この頃のコーチシナは、安南国の国情は意外にも180度の大転換を示していた。安南王2世明命(ミン・マン)帝の反仏政策が之である。
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ベトナム人歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』によりますと、ベトナムの南北朝時代は、このようになります。⇩
黎(レ)朝時代(前後):1428~1788年
この間の詳細が、
南北朝時代:1527~1802年
西山(タイソン)朝時代:1788~1802年
阮(グエン)朝時代 :1802~1945年
阮朝開祖嘉隆(ザー・ロン)帝の直系の子孫がクオン・デ候です。
系図はこちらを参照下さい。⇒阮(グエン)朝の皇帝系図
開祖の嫡嗣カイン皇太子は、6歳の時に人質としてフランスに行きました。その時パリで宮廷画家によって書かれた肖像画がこちらです。⇩
此の辺りの歴史については、以前少しずつ投稿してありますので、こちらも宜しければご参考下さい。⇒
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(1)
「安南民族運動史」(1) 〜阮(グエン)朝の成立頃〜 (再)
上記「西山党の乱」の頃の日本は徳川江戸時代です。千葉沖で暴風に遭った漁師さん達がベトナム中部に漂着した時の滞在記(長崎でのお取調べ)に西山党のことが少し書いて有ります。宜しければご参照下さい。⇒
江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝頃のベトナム その③「南瓢記(なんぴょうき)」
それでは、次回に続きます!
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