『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957) ~第15章 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕~
長い極貧と流浪の生活苦から、祖国独立の志を捨ててフランスに寝返る元同志が続出していたこの頃、ベトナム革命運動に取って大きな転機となった2つの事件が発生しました。
一つが、沙面の仏租界内で起きた仏領インドシナ総督メルランへの爆弾投下事件と、もう一つが、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕です。
爆弾投下に志願したのは、若いベトナム人同志范鴻泰(ファム・ ホン・タイ)。
宴会場に爆弾を投げ入れた後、范鴻泰(ファム・ ホン・タイ)は珠江に身を投げて死んでしまいました。
広東政府と中国国民党は、彼の葬儀を執り行い、『黄花崗の72烈士の墓』の目の前に墓を建ててくれました。今でも、墓はこの場所にあります。
この事件は、国際世論に大きな反響を呼んだようです。風前の灯火だったベトナム革命運動に、国際社会が再度注目をするきっかけになったのです。
そして、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕は1925年5月。
この頃、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の同郷の後輩、阮愛国(グエン・アイ・コック=後のホー・チ・ミン氏とされる人物)が広州に赴任、ソ連のボロージン配下で仕事していました。
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、阮愛国(グエン・アイ・コック)の所で働いていた或るベトナム人密偵の罠に嵌ってしまい、上海のイギリス租界警察に捕えられます。そのままフランスに引き渡され、本国へ強制送還されました。
実は、戦後日本で流布された定説に、クオン・デ候と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、君主主義を執るか共和主義を執るか等の意見対立で仲たがいをしたという説があります。
実際は、クオン・デ候の自伝にもファン・ボイ・チャウの自伝にも、どこにもそんなことは一行も書いてありません。
ベトナム語書籍は、信頼性の低い物が3種類存在します。
1945年以降に北部で発行、1960年代後半から南部で発行、そして極めつけ1975年以後ベトナム全土で発行、の3種類です。
凡そ殆どが大なり小なり改竄されているので史料価値が低く、読むときには細心の注意が必要です。
戦後日本で未だに堂々と蔓延っているベトナム抗仏関連史の欺瞞、嘘、虚説は、どうもこれら不正確史料からによる所が大きいようです。戦前ベトナム人志士達の高い精神性と武士道精神、戦前日本人達との深い絆、それらを明らかにして、彼等の名誉回復を今からでもコツコツと続けて行きたい。
それが、今平和な時代に生きる戦後日本人の使命だと信じて居ます。
クオン・デ候も、ファン・ボイ・チャウの逮捕に際して、この様に言っています。⇩
”長年辛苦を共にして来た同志潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が突然逮捕されたこと、私にとっては片翼を千切られたに等しい思いでした。
けれども、この潘佩珠の逮捕が、ベトナム革命を消滅させるどころか、逆にベトナム国内各地の革命運動を更に活発化させる結果になろうとは、フランスは全く予想していなかっただろう。”
(1924年6月~1925年5月)
**第15章 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕**
海外の抗仏活動は失敗を重ねていたが、完全に消尽はせず、1924年後半になって俄然その火が再度燃え上がりました。
きっかけとなったのは、范鴻泰(ファム・ ホン・タイ)の沙面(広東)での爆弾投下事件でした。
日付は6月19日。
范鴻泰は、国から広州へ出て来たばかりの青年で、胡松茂(ホ・トゥン・マウ)や他の同志らと一緒に、広東で新しく設立された黄埔(こうほ)軍官学校に入学する予定でした。
この時は、丁度仏領インドシナ総督メルランの香港渡航予定があり、独自 ルートから渡航の詳細情報を得た同志らが、メルラン暗殺を計画していたのです。范鴻泰は、即座にこの爆弾投下任務へ志願しました。
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