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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第6章 上海、香港を彷徨う~

 博多の門司港を出港して上海に着いたクオン・デ候一行でしたが、クオン・デ候は、この時のことを述懐し、「日本当局は、私が門司港で乗船した時に上海領事館へ電報を打ち、船が上海に着いてから私の身の保護まで依頼」してくれたと、日本の手厚い保護に感謝を述べて居ます。
 この『日本当局』は当然日本外務省、時の外務大臣は小村寿太郎(こむら じゅたろう)電報を受け取った上海領事館は、若き日の松岡洋右(まつおか ようすけ)上海総領事代理として赴任していました。

 この『クオン・デ候一行上海上陸顛末』は、戦後日本に於いては、日本側に残された資料に基づき、今まで憶測の域を出ませんでしたが、クオン・デ候御自身が語る顛末の一部始終は、流石、楽天的で根性のあるベトナム人らしい、明るくユーモアに富んだ非常に楽しい内容です。

 上海から汕頭(スワトウ)、そしてベトナム革命拠点のある香港、その後に澳門(マカオ)へ渡りますが、時のマカオは『東洋のモンテカルロ』の異名で、名物は『公式カジノ』と『阿片(アヘン)』と『遊女』

 クオン・デ候は、「賭博場と阿片売店は街中至る所に見られ、春を売る商売はその他のどんな業種よりも繁盛している」こと、そして、「これがすべてマカオ政府の財源になるのだから、結局はマカオ人民を堕落へ貶める原因と言える」と、マカオ政府の汚職に塗れた低レベルの経済振興策を批判しています。
 当然です!😵‍💫😵‍💫😨
 何処の世界に、『経済振興の為』だと称して、外国人に安価に土地を与え、自国に『公式カジノ』を誘致し、付物の『売春』と『麻薬』の危険に自国民を晒して『財源増で、税収入アップ⤴⤴❤️』しようなど愚策をやる政府が居るものか?? 😭
 もしいたら、呆れますよね。そんなのは政府とは呼ばず、『植民地資本主義下のただの管理組合』でしょう。。。(笑)

 クオン・デ候は直ぐにマカオを出て、広州に渡ります。広州では、支那人の女丈夫で、ベトナム革命家達へ多大な援助を与えてくれた周師女史の家に滞在しました。
(1909年10月頃~)


**第6章 上海、香港を彷徨う**

 
 伊代丸が門司港を出港したのは、1909年10月26日(明治42年)。初めて日本に足を踏み入れてから3年半が経っていました。
 船の欄干からだんだんと離れて行く岸壁を振り返り見ると、胸が掻き毟られる想いでした。

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