満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』④ ~安南王国の反仏時代・フランスのインドシナ征略(1)~

 先にシェニョの帰国中、1820年1月15日グエン・フック・アインは薨じ(ピニョ―と共に渡仏せるカイン皇太子は、22歳の若さを以て1801年3月20日逝去す)、第4王子たる明命(ミン・マン)王福皎が王位に就いたのであるが、王はフランスの勢力が拡大するを憎み、父王と全然逆な拝外政策を採り、シェニョの持参せる通商条約を一蹴した。
 全然期待を裏切られたシェニョは、その冷遇、敵視に耐えかねて、1824年フエを去った。翌25年、王は更にルイ18世の国書を持参せるブガンビーユ艦長との謁見を拒絶し、やがてキリスト教徒及び宣教師の迫害に乗り出した。然し当時ミン・マン王は故父王の重臣殊にコーチ・シナ副王黎文悦(レ・バン・ズェット)への気兼ねで多年の手心を加えていたが、1833年福王逝去するや、王は命じてその墓を鞕ち、外国人排斥の気勢を挙げた。次いで同年『キリスト教信仰、布教の禁止』、更に36年『布教師を死刑に処す』の2布告を出すに至ったが、一方フランスの報復を恐れ使節を派遣した。然しルイ・フィリップ王は之を拒絶し、三度両国の関係は断絶するに至った。
 このためフランスは、築き上げたインドシナに於ける勢力を漸次失墜していったが、1840-42年の阿片(あへん)戦争は、インドシナに対するフランスの目を再び覚まさせた。
 1841年ミン・マン王の後を継いだ紹治(チウ・チ)王臨時は之また排外政策を採ったが、事態は先王の時と全然異なって居った。即ち阿片戦争に於けるイギリスの成功を見たフランスは、果然強硬態度に出て1843年ファバンレベック提督は監禁中の5人の宣教師の放免を要求、更に45年セビーユ提督は死刑の宣告を受けたる一司教の放免に成功した。安南弱しと見たフランスは猶お一層強硬態度に出て、1847年3月ラビエール提督は先に1844年清国と締結せる通商条約と同一内容の条約を安南に求め、且つその決意を示すべくツーラン(ダナン)湾を占拠し、武力を以て之を脅した。
 
 上記の如きフランスの不法なる恐喝的態度は却って逆効果を齎し、安南人の排他的感情に益々油を注ぐ結果となり、1847年チウ・チ王はその死に際し「全外国人を死刑に処せよ」との悲壮なる遺言を残した程であった。
 斯くてピニョ―が禊となり、両国間に結ばれた明朗・平和なる関係は、ザー・ロン王(始祖)の死後は漸次暗い性質を帯びて行ったのである。

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 阮(グエン)朝第2代目皇帝
明命(ミン・マン)帝です。系図はこちら⇒(阮(グエン)朝の皇帝系図|
 外国視点でベトナム史を整理すると大概上述の流れになりますが、では、ベトナム人視点で見た当時の国内政治の様子、グエン朝廷政府の様子を、歴史家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』から拾ってみたいと思います。⇩

 「第3代目紹治(チウ・チ)帝(在位 1841‐47)と、続く4代目嗣徳(トゥ・ドック) 帝(在位 1847‐83)も、西洋人の貿易と布教活動に対して更に厳しい態度を継続する。この頃になると、国内の知識人達から世界情勢が急を告げていること進言が相次ぐが、廷臣と呼ばれる朝廷官吏達は、天下を乱そうとする蒙昧虚言であるとして 一向に相手にしようとしなかった。
 1866年西洋留学から帰国したゲアン省出身 の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)らが、国際情勢を詳細に述べた上で、一日でも早く政治改革せねば祖国が失われてしまう恐れありと訴状をしたためるが、廷臣らは耳を傾けようとしなかった。」

           『越南史略』より

 この様に、は当然閣僚会議を経てから命令乃至法律を発布しているのです。閣僚・官僚がその場の利権と保身の為に多勢で王の真意を掻き消したとしても、後世史実に残るのは責任者の王の名前だけ。これは歴史の盲点だと思います。
 事無かれ主義を貫いて、国家が道を誤る方へ誘導する売国閣僚・利権官僚の罪業は深い

 また、上述⇧の『ゲアン省出身 の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)』氏とはフランス留学から帰った阮朝側の優秀で誠実なフランス語通訳者でした。しかし「政治改革の必要性」を口にしたことで保守売国官僚らに疎まれ、捕縛されて極刑になりました。詳細はまた後日『ベトナム志士義人シリーズ』で取り挙げたいと思います。

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 フランスのインドシナ征略

 悲壮な遺言を残し世を去れるチウ・チ王の後を継いだ嗣徳(トゥ・ドック)王福任は、安南にとって不幸なことにはこの多難なる国事を処理するに足る器ではなかった。
 王は唯徒にキリスト教の迫害を続け、1851年ー52年に二人のフランス人宣教師を斬首に処した。ナポレオン三世は安南に厳重抗議したが、使節去るや血に狂った安南人は、1857年7月20日トンキンに於いてスペイン人宣教師2名をも斬首に処するの暴挙を敢えてした。

 この時機逸すべからずとフランスは、スペインと同盟を結び自国民保護と称して遂に遠征の師を起こした。1858年8月30日、フランス軍司令官リドル・ド・グヌーイ及びスペイン大佐ラガゾット指揮の下に帆走戦艦一隻、三等艦(一段包装)2隻、砲艦5隻及び運送船三隻より成るフランス・スペイン連合艦隊は、海南島を抜錨、30日夜、ツーラン湾に投錨、9月1日夜明けを待って一斉に砲撃を開始し、早くも同日同湾及び同半島を占領した。
 然し連合軍は炎熱に苦しみ、又その後著しき戦果なきため敵の背後を脅さんとし、兵力の一部を残し、南部インドシナ攻略に向かった。1859年2月11日、聖・ジャック岬(ブンタウ岬)を占領、それより西貢(サイ・ゴン)河を遡航、同月16日サイゴンに迫り、翌々日18日遂に城壁高く三色旗を翻した。その後リゴルは再びツーランに帰り、安南王に折衝を行わんとしたが容易に解決を見ず、この間リゴルに代わってパージュが折衝の任に当たることになった。然し仏清間に戦火(=アロー号事件を因とする英仏連合の北清侵伐)が開かれ、この応援のためフランス軍はツーランを撤去したので、一旦安南は勢を盛り返したが、1861年清国を破り赴任せるシャルネ提督は、その余勢を驅ってサイゴンを占領、更にザー・ディン(サイゴン北部)、美萩(ミ・トー)の2州を陥れた。

 1861年11月30日、シャルネの後任ボンナル提督は、一挙に勝利を決せんとし、先ず1862年3月1日コン・ロン(コン・ダオ)島、更にビエンホア、バリア、及びヴィンロンの3州を占領し、コーチ・シナの大半を確保するに成功した。安南のトゥ・ドック王は長年の抗戦に依る国内財政の極度の疲弊、之に加えてトンキンの前王朝黎(レ)氏の一族が叛旗を翻したため、遂に一時の屈辱を忍び和平条約の締結を決意し、1862年6月5日、サイゴンに於いてボンナル及び安南全権委員との間に条約が調印された。 
 1)安南はフランス、スペイン両国民によるキリスト教の布教を認める
 2)安南は、ビエンホア、ザーディン、ミトーの3州及びコンロン島をフランスに割譲す。
 3)ツーラン、バラ及びルアン・ナムの開港及びフランス人に全メコン河に於ける通商・航行の自由を認める
 4)フランス、スペイン両国に対し、2千万フランの賠償を行なう

 然し前述せる如くトゥ・ドック王が和平に応じた理由は、トンキンの叛徒を討つための方便に過ぎなかったのであるから、その目的を達するや、再びキリスト教徒の迫害を続け、又南部諸州の住民を煽動してフランスに反抗せしめる一方、1863年7月使節をフランスに送り、先に認めた和平条約に於ける東部3州の割譲を賠償金を以て代えることを要求した。
 当時フランスに於いては、メキシコ遠征の失敗による国内の沈滞的空気のため、安南王の要求は容れられ、1862年6月5日条約に代わるべき新協定が成立した。本協定の内容は、「フランスは航行の安全確保のため、サイゴン、ミトー及びチョロンを占拠し他の諸州は一億フラン(50年払い)の賠償金を以て、安南に還付す」とあった。交渉に成功した安南使節は1864年3月初旬サイゴンに帰還した。一方、本国の命を受け新協定締結の任を帯びたオバレ海軍少佐はフエに赴いたが、フランスの弱腰を蔑視したトゥ・ドック王は、なおもその全面的修正を求めた。ここに於いてコーチシナ司令官ラグランディエール提督は、オバレ少佐に「交渉を中止せよ」との命令を発し、一方本国に既得権益擁護のために強硬態度を求めた。この報に接した本国は彼が主張を容認したので、ラグランディエールは決定的に交渉の断絶を安南に通達する一方、1862年条約で獲得した3州を確保せんがため之が統治に着手した。
 然し未だ西部コーチシナに於いては、風雲急なるものがあった。

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 フランス・スペイン軍は派兵の理由を『安南王国のキリスト教迫害から自国民を保護する為』とし、これを大義名分にしました。ここで、この時期インドシナでのキリスト教布教の状態を見てみましょう。⇩

 「インドシナに於ける布教状態を是非とも検討する必要がある。蓋しキリスト教徒の迫害が、半島攻略の絶好の口実となっていたからである。宗教と帝国主義とは密接に結合していたので、伝道師の保護は領土拡張という物質主義に精神的要素を導入する。」
           T.S エンニス氏著『印度支那』

 要するに古来から、領土拡張の為には物質的主義のみでは動機に弱く、何かしら精神的要素を導入する必要がある、と西洋植民地主義者側は常にしっかりと認識して侵略を進めて来る訳です。この精神的要素は、百年前には”〇〇主義”などの『イデオロギー対立』へ衣装を取り換え、現代はさしずめ『LGBTや多文化共生対立』。←これに新しく衣姿を着替えて東洋のみならず全世界の良民を、良心を、再びアタック!してるんですね、多分。 

 更にここで忘れてはならないのは、この頃フランス本国で何があったのか?ですね。1847年、王政が倒れて≪フランス革命≫が成功し臨時政府が共和政を宣言しました。此の出来事が、ベトナムを更なる泥沼の深みに嵌めました。⇩

 「ところが、1848年(フランス本国)革命の報せがインドシナに届くと、其の態度は一変し、王官の官人たちも難なく国王を説き伏せてキリスト教徒に攻撃を始めさせようと、フランスは国内の紛争に心を奪われているから安南攻撃などは到底できはしないと力説した。そこで1848年7月、帝は法令を発した。」
          T.S エンニス氏著『印度支那』

 歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏も、この時期の事を『越南史略』中でこう評しています。⇩

 「…近世時代は、始祖ザーロン帝の建てた阮(グエン)本朝から現在のフランス保護期である。一番初めにザーロン帝がフランスと繋がりを持った理由は、西山党を倒すためだった。後の子孫達は開祖と異なり天主教を厳禁にして、外国の貿易活動を禁ずる鎖国政策を取った。
 朝廷に仕える廷臣の多くは、知慮狭隘だというのに傲岸不遜の態。時勢に対応出来うる政策改革を実行することなど全く無かった。こういった状況が、外洋からやって来る外国勢との間に不和を招き、最終的に自国の権利庇護を主張したフランスが兵力でもって我国に対峙したその結果が、現在置かれている保護政策下なのである。」
         
 『越南史略』より

 嗚呼…、本当に、『国家を滅ぼす者…最も手ごわい強敵』とは、外国勢でも宗教でも陰謀でもDSでも何でもない。。。何より最も恐ろしいモノ、それは、自家薬籠中に棲んでいるんですね、いつでも。
 『2.26事件』の西田税(にしだ みつぎ)氏も言ってますけど、本当の世界平和の敵は、
 「醜陋(しゅうろう)卑劣なる我欲利己放縦安逸淫蕩驕恣などの邪悪」のこと・・・受験戦士出身の堕落官僚とハイエナ利権屋集団でしょうねぇ。😭😭🤐🤐

 次回に続きます!😊😊
        
 
 
 

 
 
 


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