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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』㉒最終章 『年表・第三期(1905年~)・潘伯玉(ファン・バ・ゴック)の暗殺/烈士范鴻泰(ファム・ホン・タイ)/捕縛・祖国へ送還』

潘伯玉(ファン・バ・ゴック)の暗殺

 壬戌(1922)年1月15日。
 私が北京の東亜新聞編集員として働いていた頃、杭州省市内に突如として、西湖岸に殺人死体が上がって住民が怖がっているという奇妙な噂が流れた。
 私はこの事件の後の2月頃杭州へ戻り、それ以後は杭州を売文所とした。
 
 この事件のあった年、私は雲南から杭州へ入った。杭州は中国国内でも指折りの名勝地であり、林逋(りん・ほ)邸園、岳飛(がく・ひ)旧墓、士錫麟碑亭、秋鑑女侠の廟墓などは全てここ杭州にある。景勝を眺めての暮らしは至福の時間であり、加えて革命家の友人の邸が多く存在し、マイ・ソン翁も住んで居たから往来には利便だった。けれど、たった一つ欠点は上海に近いので、フランス密偵や同国人の密偵連中が常にうろうろしていたから、落ち着いて定住することは出来なかった。

 壬戌(1922)年1月15日、丁度元宵節(げんしょうせつ)の時であり、地元は西湖沿いに星の如くに輝く提灯飾りを見学する男女の姿で大いに賑わい、提灯見学の杭州人で大変混雑していた。そんな時、何処かの雑踏で爆竹の音が鳴った後、拳銃の発砲音が3回聞こえ、男が地上に倒れ込み、その身体は血にまみれていた。支那警察兵が検視をすると、身体から所持金2千150元と、ポケットに時価60元の高級金時計が出て来たが、男は既に絶命していた。 哀しいかな、その死体は我らの同胞だった男であり、仇敵フランスの小間使いだ。誰が殺したのか。それは刻名に値する立派な青年烈士、黎傘英(レ・タン・アイン)君だった。

 

軍事雑誌を編集す

 北京に滞在の折、友人の林亮生(りん・りょうせい)氏から手紙を受け取った。その頃、 林君は杭州軍事編集社総理の職にあった。その頃までに、北京で学んだ我国の学生は既に相当数に上って居たが、北京士官学校卒業後は、外交問題の関係があり、彼等全員が軍に入隊できた訳では無かった。
 そんな背景があり、段祺瑞(だん・きずい)兵総長の意を受けた杭州省督朱瑞(しゅ・ずい)が、我国人を収容する為の軍事雑誌発行機関を設立した。林亮生からの手紙でこの事を知った私は北京を発って杭州へ戻り、この軍事雑誌編集員に就任して毎月70元の報酬を得た。 雇われ売文稼業に大丈夫の心意気や節度は如何んと問われようとも、ここから毎月の生活費を差し引いた余剰金で2、3人の青年を学校へ通わせることが出来た。その中に黎文智(レ・バン・チ)君という少年が居り、卒業後にタイへ行って、その後本を送り届けるべくベトナム国内に潜入したが、前後の理由不明のまま溺死したことも未だ絶対に忘れられない。

 編集員としての業務中は、時事評論、社説、小説等々、≪革命世界の精神発揚≫や、 ≪帝国植民地主義≫を痛罵する記事を見かける度に気分が晴れ、饒舌爽やかになったから、この職業は私にとって良縁だった。 ここで過ごした3年間は、毎日が平々凡々としていたが、一つ非常に喜ばしい事があっ た。それは、1923年11月に杭州でインド人詩聖ラビンドラナート・タゴール先生の演説会が開かれた時、章炳麟先生から紹介を得てタゴール先生をお訪ねし、30分程の面会が叶った。その時、タゴール先生へ私の漢語本を2冊贈呈した事は大変な光栄であった。

 この頃に書いた国内問題に関する本は、『予が九年来所持する主義』、『医魂丹』、『天乎帝乎』。携帯の利便性を考えて、この3冊は小型本にした。
 『天乎帝乎』は、1)国民を隠滅する宗教家、2)民族を隠滅する法律、3)民族を隠滅する教育方法の3篇に分けて、植民地主義の悪行を余す事無く暴いた本。それ以外にも、長文3篇を書いた。そして、『祖国国内の青年学生への警告』と『在タイ祖国同胞への警告』 2篇を漢文で書き、国文翻訳した。『隣邦タイ国政府への警告文』も書いたが、これは国文だったので、後に同志がタイ語へ翻訳した。これらの本を書き上げたところで、我が≪在外革命学校≫は、殆ど幕引きとなった。
 以下に、烈士范鴻泰(ファム・ホン・タイ)の一部始終を書いて置く。

 烈士范鴻泰(ファム・ホン・タイ)

 甲子(1924)年5月19日、編集所の椅子に腰かけながら新聞を開くと、紙面上に、≪驚天動地の暗殺計画…、ベトナム革命党の爆弾の爆音が轟く…≫と、上海各新聞社が広東から発した電信記事の大見出しが私の目に飛び込んだ。読み終えた瞬間に、自分の手足が震えるのが分かった。 その日から連続して4、5日の間、中国国内各紙と英米発行の雑誌上で途切れることなく事件の続報と批判の声が掲載された。今や、世界中の人々にベトナム革命党の存在を知らしめたのだ。しかも、最大の大音声による大宣伝でだ。それ故に反響も大きかった。
 私は事前に予期せずと雖も、詳細を同志達から聞き取ったので、ここに事件のあらましを記載して置く。

 甲子(1924)年2月、仏領インドシナ総督メルランが日本の東京へ公式訪問する際、香港、上海などへ立ち寄る公務予定が発表された。そして、この行動計画の詳細情報を我らの在外同志たちが入手した。これは千載一遇の機会だったが、物事全てに於いて聞くは易し、実行は難し。まして悪逆帝国主義政府への暗殺計画だ、これが一朝一夕と上手く運ぶ筈が無い。更に此度の公式訪問の目的は、メルランと日本政府の間で密約を締結するのがその本丸であり、仏領インドシナ政府にとっての大時局だったから、メルランの身辺は水も漏らさぬ厳しい警護体制が敷かれていた。 それ故に、メルランの出発前にはインドシナ総督府の探偵室長が広東、香港、上海などへ陳独貴(チャン・ドック・キ)、阮尚玄(グエン・トゥン・フェン)等密偵たちを沢山送り込んで来た為に、我らの行く所には必ず奴等の影が有り、常に背後に尾行が着いた。しかし、 いくら厳重警護しようとも、我ら側は策を講じ突破しよう、張子房の刀、安重根の拳銃を止めようとても止めることは適わず。

 甲子(1924)年5月上旬、日本訪問を終えたメルラン総督は香港へやって来た。目的は、 広東政府に対してベトナム革命党の取り締まりを交渉することだった。全旅程は厳密に外部へ伏せられ、内部以外の人間はメルランを乗せたフランス軍船の出入り予定時刻を誰も知らなかった。だが、あれも天声か、天が我が祖国を扶けたのか。フランス領事館側で働く密偵の一人が、我党へメルランの行程を知らせて来たのだ。この情報を得たのが我党人の范鴻泰(ファム・ホン・タイ)君だった。 大義を心に秘め、祖国から出洋して来たホン・タイ君は、元より自らベトナムの安重根たらんとする若者だった。
 3月の或る日、メルランがもうすぐ広東へ来るという情報を得た彼は、この機を逃すまいと既に決心を固めた。しかし、準備をしようにも同国人の密偵らに昼夜構わず執拗に付きまとわれていたので、ホン・タイ君は親友の黎傘英(レ・タイン・ア イン)君と謀り、密偵らの目を晦ましつつチャンスを伺うことにした。その時幸運だったのは、 黄甫(こうほ)軍官学校の教師が我が党人の知り合いだったので、この教師に新式爆弾の製造方法の教えを請うと、歓んで教えてくれた。蜜柑程度の大きさの電気爆弾2個、これを西洋人がよく使っている小さい手提げカバンそっくりに拵えた革製カバンの中に仕込んだ。それから、中国人の軍人から拳銃2挺を借り受け、これで真新しい武器を揃えることが出来た。入手した武器類を前に、ホン・タイ君の闘志は漲った。
 メルラン総督を乗せた軍艦は、予定通り旧暦5月18日午前7時に広東へ入港し、珠江の天字碼頭(まとう)に着岸した。予定は、正午12時に沙面租界のヴィクトリア飯店で各国外交官らとの昼食会。それから、午後6時に沙面のフランス人経営クラブにてフランス領事と在広東フランス人達と会食。ここらが絶好の機会になり得る。もし、少しでも手違いがあれば全てが水の泡、絶対に失敗出来ないと爆弾を腹にしっかりと抱え込んだホン・タイ 君は、自分の目的地をしっかりと定めた。そして、その彼に天が絶好の機会をもたらしたのだ。爆弾は、投げつけられたと同時に激しい爆発音が鳴り響いて、中華人達の感情を壊す事無く、我ら黄色人種の鬱憤を吐き出した。これも、我が国の英霊山河が導いてくれたに違いない。

 17日の当日は、ホン・タイ烈士は予め小船を雇い、天字碼頭埠頭に停泊させて置いた。 虎の如くに船に身を沈め、爆弾を投げる用意をしてメルランが岸に上がる時刻を待った。 だが、フランス軍艦が入港する前の埠頭周辺で、広東省警察署長による厳粛な一斉検査が行われ、周辺に浮かぶ大小の漁船を追っ払い停泊を禁じた。そこへメルランを乗せた軍艦が悠々と入港して来たのだ。こうして、ホン・タイ君が先ず第一に予定していた埠頭での襲撃は不発に終った。しかしまだ機会はあるとホン・タイ君は勇を奮い、ヴィクトリア飯店の上階に部屋を取って予め潜んで置こうとしたが、この日の英仏租界は尋常でない警戒ぶりだったので、外国査証を所持せぬ者は部屋の予約が出来なかった。ホン・タイ烈士の気持ちは逸ったが、カバンには2個の爆弾と懐のポケットには拳銃があるのだ、もう挫けることは無い、最期まで絶対にやり抜く決心だった。
 時計の針は午後6時を指し、フランス領事も在住フランス人も男も女も、がやがやとクラブに入店して行った。会場には、酒とダンス・パーティの準備がされた。メルラン総督の就任祝いと、この度の外国訪問の成功を祝う為に。 時計は6時40分。メルランの乘った車が租界入口の橋を通過した。車を迎えようと人々がクラブから出て来た。その少し後で一人の壮年の男が現れた。その男の顔色は黄白色をしていたが、電燈の明かりの下では少し赤みを帯びていた。西洋風の口髭を蓄え、西洋靴を履き、手には西洋式革鞄を下げていた。ステッキを突きながら闊歩して橋を越えると、真直ぐクラブの方へ歩いて行った。門番の憲兵2人はフランス人だったが、その男をパーティーに出席する西洋人と間違った。何故なら、その男は全身の服装も行動様式も全くフランス人とそっくりだったから、フランス警護兵は微塵も疑わなかったのだ。こうして直後、 ホン・タイ烈士に最大のチャンスが巡って来た。 時刻は7時、時計の音が鳴り終わり、テーブル上のナイフ、フォークの動く音が微かに聞こえ始めた時、烈士の手から放たれた爆弾がテーブルの上で爆発した。鳴り響く大きな爆発音の衝撃で天井が震え、テーブル両側に座っていた領事夫妻とフランスの銀行長夫妻4人は即死。フランス国家医院院長と随行人2人は重傷だったが、数日後に死亡した。 爆発事件発生後、英仏警護兵と軍艦の水兵が爆弾投下犯人捕縛の為に慌ただしく四方を走り回り、全域に包囲網を敷いた。だが、ホン・タイ烈士はフランスの手中で死ぬことなど絶対に望まなかったのだ。彼は租界の橋入り口まで走り出て、行く手に警護兵を見留めると、踵を返して監視所を目の前に川沿いを逃走した。そして、猛追する警護兵が背後に迫った時、ホン・タイ烈士はポケットから短銃を取り出し、警護兵へ向かって2発を発射してから、そのまま珠江に飛び込んでしまった。 ホン・タイ烈士の真の目的はメルランだったが、奴は難を逃れた。きっとあの世で烈士は長い溜息をついたろう。しかし、これは成功だ。ベトナム革命党の目的は殺人ではなく、悪逆な植民地政府を脅かすことだ。この目的を達した。だからこれは成功だ。
 この記念すべき日の日付は、甲子(1924)年5月18日。

 20日、ホン・タイ烈士の死体が川から引き揚げられた。現地で葬儀が執り行われ、墓地に埋葬された。私は、後にこの事件に関連する文章を何篇か書いた。それが、『烈士范鴻泰先生伝』、『沙面爆弾投下事件に関するベトナム国民党宣言書』、『同志たちによる范鴻泰君追悼の祭文』などだ。 事件が発生した5~7日後、中華各紙は一斉に、≪大胆且つ見事な謀略≫とホン・タイ烈士の行動を称揚した。その理由に、爆弾を投げた場所が中国人官僚の集まる歓待式ではなく、外国人との懇親会でもなく、メルラン総督とフランス人の懇親会であり、西洋人租界内だったからだ。我国の烈士は、ただフランス人一人へ向け爆弾を投げた。彼の勇敢さ、そして心使いは称賛されるに値する。
 一週間経った頃から、在北京フランス公使が広東政府と数回に亘って面会し、ベトナム人追放と被害への損害賠償を請求した。そして、広東政府に対して謝罪を要求したが、広東政府は断乎これを拒絶した。この時は孫中山先生が広東に大元帥府を開設し、胡官民 (こ・かんみん)氏が省長として就任していたが、彼等の言い分はこうだった。
 『予ら、未だベトナム人の我国に在るを知らず。万一在りとしても皆善い人ばかりで恐るべき者は無し。仏印総督の此の度の訪問中、我が国の省内到る処みな安きこと泰山の如し。しかし、一度租界に踏み入るや、この様に危険な攻撃に遭う。これは英仏警備兵の不祥事であること明らかである。これ以後フランスがこのような危険を避けたいならば、 臨時に中国警備兵を租界に入れて、貴国人の警護を要請なさるが良案と思うが如何であ ろうか。』

 ホン・タイ烈士の殉死から約2カ月後の甲子(1924)年7月、この事件に関する中仏交渉が終結したので、我ら同志は烈士を葬った土饅頭の前に後日改葬する時の目印として取敢えず碑を建てて置いた。それから12月に入り、廖中愷(りょう・ちゅうがい)や汪精衛 (おう・せいえい)など中国国民党の党人たちが、ホン・タイ烈士と我党に対する中国人の誠心を示すためとして我が党へ3千元を贈ると共に、ホン・タイ烈士の改葬場所を黄花崗 (こうかこう)前の丘に決め、そこへ墓を移してくれた。
 黄花崗は、満清政府と戦い義に殉じた72烈士を合葬した墳墓がある小高い丘。ホン・タイ烈士の墓は、72烈士の対面にあり、墓式は壮威で傍らに碑亭がある。碑には大文字で≪越南烈士范鴻泰先生之墓≫、この題字は鄒魯(すう・ろ)先生の筆によるものだ。

 

ベトナム光復会をベトナム国民党へ改組

 甲子(1924)年7月に広東へ戻り、ここで3カ月滞在して一仕事した。既にベトナム光復会の方は、私の広東獄中の4年間に党人の7、8割方が脱落したので潰滅的となっており、 光復会の名は単なる神棚の牌という状態になっていた。しかし、此の年の春頃よりベトナム国内から続々と青年が広東へ出て来ていた所に加え、沙面爆弾投下事件の発生で我が党の名が広く知れ渡ることになり、漸く知名度が上がって来た状況だったから、党の中興に期待を持った在広東の若い同志たちが、この時積極的に党の改組に当たった。
 その当時、黄甫軍官学校の校長は蔣介石(しょう・かいせき)先生、校督は李済琛(り・ さいたん)先生が就任して居た。私はグエン・ハイ・タン氏とこの学校を訪れて、お二人と会してから学校内を見学させて貰った。そして、この学校へ我国の学生を送り込みたいと打ち明けると、即座に李先生の御快諾を頂いた。早速、在広東の同志全員を招集して、 ベトナム光復会を改めベトナム国民党への改組会議を開いた。

 私は、『ベトナム国民党規約』と『国民党綱領』を作成してこれを印刷し、各地に散らばる同志たちへ通達すると同時に中国国民党へも回覧させた。
 規約は、1)評議部、2)経済部、3)執行部、4)監督部、5)交際部の5部から成り、この執行部の下にa)文読司、b)宣伝司、c)軍事司、d)財政司、e)庶務司、f)訓練司の6司所を設置した。 組織及び党則内容の大枠は中国国民党を手本とし、多少我国の実情に合うように改訂した。これなどは、その当時の時局に合致させた改革手段であった。

 改組業務も目途が立ち、甲子(1924)年9月に杭州へ戻った。ベトナム国民党党綱領を国内へ持ち込む仕事が残っていたが、これはホ・トゥン・マウ氏に一任して杭州へ戻ったので、この後この党綱領が国内へ持ち運べたかどうか定かではない。党規約も、現在はどんな改訂がされているか知る由が無い。

 乙丑(1925)年5月、2件の用事があり広東へ行った。一件は、国民党改組関連で、既に上述した通り。もう一件は、旧暦5月18日に広東にて執り行われたファム・ホン・タイ先生の第一周忌記念式。 実は、私が杭州に滞在していたその頃、ドイツ首都ベルリンに留学中だったチャン・フ ウ・コン(=陳仲克)氏からの依頼を受けて毎年6月と12月の年2回、上海へ出てドイツへ学費を送金していた。この時は5月にホン・タイ烈士記念式典の予定があること、それに外国送金は外貨換金もせねばならないから誰かに頼むことも出来ないという諸々の理由で、いつもより一カ月早くドイツへの送金を済ませることにした。

 

捕縛・祖国へ送還

 乙丑(1925)年5月11日、上海で速やかに外国送金を済ませてしまおうと思って急いで広東行きの船に乗った。上海から広東は船で約5日だから、杭州を発つ時に送金金額の400元を懐に入れた。
 だが、こういった私の行動は全て出発前から密偵がフランスへ密告していた。その密告者は、信じられないことに私の同居者であり、私の庇護を受けていた者だった。男の名は阮尚玄(グエン・トゥン・フエン)といい、杭州に来てからは陳徳貴(チャン・ドック・キ)と常に仲良くしていたので怪しいとは感じていたが、聞けば奴は阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)翁の甥らしく、科挙試験に合格、漢語に長じてフランス語と国語にも明るい。だから、私は奴を重宝し、書記として傍に置き、ついでにフランス人への諜報を任せていた。全く私は何を考えていたのか。

 旧暦5月11日、正午12時。汽車は杭州から北站に到着した。私は、先に急いで金を送金してしまおうと思い、手荷物預かり所で荷物を預けてから、小トランク一つを手に下げて改札を出た。そこに、身支度が非常に礼儀正しい運転手が4人の西洋人の近くに立っていたが、私はその西洋人達がフランス人とは気が付かなかった。上海で見る外国人客は、どんな国籍の人間でも夥しく豪奢な雰囲気を醸し出し、名の張るホテルだったら必ず改札で送迎車が迎えるのが通例だったから、この時この車がまさか誘拐犯の車であろうとは考えても見なかった。私が改札を通過して2、3歩も歩いた所で、一人の西洋人がもの凄い形相をして私の目の前に立ち塞がり、 “這個車很好 請先生上車” と北京官話で話しかけて来た。私がこれを制して、“我不要”と答えると、突如として別の3人が車の後方から飛び出して私を掴むと、思い切り車の中へ押し込んだ。そして、車はあっという間に走り出してフランス租界へ直行し、川岸まで来ると待ち構えていたフランス軍船に連行され、私は軍船の囚人となった。
 軍船内の獄中、林亮生(りん・りょうせい)先生へ捧げる長篇の古封を作った。

奔馳二十年 結果僅一死 哀哉亡國人 性命等蜲蟻 
嗟余遭陽九 国亡正雛稚 生與奴隷群 俯仰自慚愧 
所恨毛羽薄 一撃容易試 殲齋計未就 尚畜椎泰志 
呼號十餘年 同胞競奮起 以此蘇國魂 大觸強権忌 
網羅瀰山河 荊棘遍天地 一枝何處借 大邦幸密邇 
側身覆戴間 跼踳胡乃爾 今朝遊滬濱 適纔北站至 
颯馳一汽車 環以凶徒四 捉人擁之前 驅向法領署 
投身鉄網中 鶏豚無其値 使余有國者 何至辱知是 
余死何足惜 所慮在唇歯 堂堂大中華 一羽不能庇 
冤死孤寧悲 瓶罄罍之恥


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