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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑥『年表・第二期(1900年~)・南部行脚/広南(クアン・ナム)の秘密会議』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム志士義人伝シリーズ

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『琉球血涙新書』


 一方で、宮廷内に内応者を探し出す目的は未だ果たせて居なかったから、文書で啓発を試みようとし、『琉球血涙新書』を作成した。それを時の兵部尚書だった胡齢(ホ・レ)公 に見せて、ホ公から他部署長官達へ紹介して貰える様に頼んで置いた。 その後、東閣官吏の阮讜(グエン・タン)氏と吏部の阮述(グエン・トァット)氏が面会を求めて来たが、単に、“くれぐれも自重せよ”と私へ忠告しに来ただけだった。私は、再びホ公に会いに行き長い時間話し込んだが、この時ホ公は深い溜息を付きながらこう言った。
 「以前まだ事を起こせる可能性が残って居た時、貴兄の様な人物は見当らなかった。今は万事が不自由となったのだ、今更どんな話を誰にどうやって持ち出せようか!」
 
 ホ公は、官邸内でもまだ気概あった人物だ。それにも拘わらずこの体たらく。いわんや、 彼以外のその他大勢に対して、望みがある訳がなかった。 
 結局、フエの内で呼応者を見つけ出す計画は殆ど失敗に終わったが、≪目麋得鹿 意魚得珠≫の故事の如く、己の予想に反して意外な結果が生じたことは、思い返しても奇妙であった。

 私の『琉球血涙新書』を受け取ったホ・レ公は、門下子弟らへこの本を写本させて、その写本を郷里の紳士達へ配っていた。南義学問を学ぶ者達は、争って写本をして熟読したというが、それらの人達の中に西湖(タイ・ホー=潘周禎、ファン・チュ・チン)氏、台川(タ イ・スエン)氏、盛平(タイン・ビン)氏などの人士が居り、その縁でそれ以後、彼等は私の莫逆の友となった。その他にも五即(グ・ラン)氏、幼趙(アウ・チウ)氏などが、この本のお蔭で初めて私の名を知った。これら友人達との出会いは、≪琉球血涙新書≫がもたらした縁のお蔭だった。

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