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第13回「店を畳むつもりだから、やっぱり取材はなしにしてほしい」(文=橋本倫史)

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第13回(全17回)

土地には無数の年輪が刻まれている。ドライブインが昭和という時代の影を背負っているように、街を歩いていると、自分が生まれる前の時代を感じる風景と出くわすこともある。ドライブインの次に取材することになった那覇の第一牧志公設市場界隈もまた、戦後の面影を色濃く残すエリアだ。

第一牧志公設市場は、戦後の闇市に起源を持つ、昔ながらの市場だ。この公設市場を中心として、界隈には自然発生的に発展した商店街が広がっている。地元の言葉で言えば「マチグヮー」。小さな個人商店が無数に軒を連ねている一帯には、地元客のみならず、観光客でも賑わっている。

旅行で沖縄を訪れるたび、市場界隈に足を運んできた。ただ、それはひとりの旅行客として訪れているだけで、いつか取材しようという目論見もないまま、迷路のように張り巡らされている路地を彷徨うばかりだった。ただ、第一牧志公設市場が建て替え工事を迎えることを知り、「ドライブインのことを記録したように、市場のことも記録に残してほしい」と声をかけられたことをきっかけに、マチグヮーに通い始めた。

[撮影=筆者]

縁もゆかりもない土地で、自分が知らない時代のことを誰かにきかせてもらうには、どうすればよいのだろう。そもそも、その「誰か」と、どうやって出会えばよいのだろう。通い始めた当初は、しばらく途方に暮れていた。

『ドライブイン探訪』のときは、取材対象には「ドライブイン」という縛りがあった。でも、マチグヮーには数えきれないほどお店がある。それに、ドライブインであれば、お昼時を外せばお店も落ち着いていて、ゆっくり話をする余白があった。それに比べると、当時はコロナ禍前ということもあって、公設市場内の鮮魚店や食堂はインバウンドで大賑わいだったから、突然訪ねて行って「取材させてもらえませんか」と切り出せる雰囲気ではなかった。そもそも沖縄に縁もゆかりもない自分が、取材できることなんてあるのだろうか──?

見知らぬ土地を取材するにも、いろんなアプローチがありうる。たとえば、知り合いのつてを辿って、誰かを紹介してもらうこともできる。その土地に詳しい人や顔役のような誰かを紹介してもらって、「こういう企画で、何軒か取材をしたいと思っているんですけど、どこかうってつけのお店はありませんか?」と取り次いでもらう──短時間でリサーチを進めなければならないのであれば、それが手っ取り早いだろう。ただ、そんなふうに取材するのであれば、縁もゆかりもない人間が足を運ぶ必然性は薄いようにも思える。

取材に取り掛かるまえに、とにかく市場界隈を歩いてみることにした。那覇に滞在しているあいだ、ひたすら界隈を歩いているうちに、迷路のように思えていた場所にも少しずつ地図が出来てくる。それと同時に、どんなお店が並んでいるのか、段々理解できてくる(ドライブインを取材したときも、最初は「とにかく数を積もう」というところから始めたけれど、やはり数を積むというのは大事なことだと思う)。

取材させてもらいたいお店がなんとなく固まってくると、取材を切り出すきっかけを掴む必要がある。食堂や喫茶店であれば、たびたび立ち寄って、食事をする。市場の精肉店や食堂であれば、できるだけ買い物をする。当時の公設市場には、一階の片隅にもテーブルがあり、鮮魚店で買ったお刺身を食べることができた。滞在中は市場をぐるぐる歩き、鮮魚店でお刺身とビールを買って、そのテーブルで食べながら市場を眺める。そんなふうに過ごしているうちに、お店の方もこちらを認識してくださって、お刺身だけ注文した日には「今日はビールはいいの?」と声をかけてもらえたこともあった。

少しずつ面識はできたものの、まだ高いハードルがあった。公設市場はお客さんが途切れず、「何日の何時に話を聞かせてもらいたい」とアポイントをとるのは難しそうだった(もう少し正確に書くと、「取材のためにまとまった時間をとっていただけませんか」なんてお願いすると、「そんな時間はない」と断られてしまうような気がした)。だから、一回で話を聞き切ろうとするのではなく、何回かに分けて話を聞かせてもらう道を選んだ。お客さんが途切れたタイミングを見計らってお邪魔して、話をきかせてもらう。もしお客さんがやってきたらすぐに中断して、様子を伺う。しばらく忙しくなりそうであれば、「また改めてお邪魔します」と伝えて、後日再訪して続きをきかせてもらうこともあった。そうして取材を重ねた記事は、2019年5月に『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)として一冊にまとめることができた。

「『ドライブイン探訪』でも、『市場界隈』でも、特別な思い入れがあるわけではないと橋本さんはと書かれていたと思うんです。そうでありながらも、通い詰めてでも話をききたいと思うに至ったパッションやモチベーションについて伺いたいなと思いました」

佐伯さんに指摘された通り、ドライブインも市場界隈も、もともと強い思い入れがあったというわけではない。取材対象として気になり始めるまで、ドライブインを利用したことはなかったし、“昭和レトロ”が好きだというわけでもない。市場に対しても、観光客として足を運んだことがある程度だった。それなのに、どうして取材を続けているのだろう?

牧志公設市場の取材は、『市場界隈』として本を出版できたところで一区切りのつもりだった。出版から数週間後、2019年6月16日に、第一牧志公設市場は一時閉場を迎えた。市場には大勢の報道陣も集まり、セレモニーが開催され、最後はカチャーシーで幕を閉じた。賑やかな風景を眺めながら、ぼくは一軒の鮮魚店のことを思い出していた。市場内にお店を構えていた鮮魚店に、僕は取材依頼をしたことがあった。そのお店の方は、いちど取材を引き受けてくれたのだけれども、後になって「自分は市場が一時閉場するタイミングで店を畳むつもりだから、やっぱり取材はなしにしてほしい」と断られてしまった。そのお店は、一時閉場の日を迎える前に店を畳んでしまって、そのお店はすっかりがらんどうになっていた。

言葉として記録されないままになってしまった言葉が、世界中に溢れている。もちろん、人間には忘れられる権利だってある。記録されることが良いことだと、声を大にして言うことはできないけれど、自分が偶然目にした風景の中に、聞き手さえいれば語られるはずだった言葉があるのだとすれば、手を伸ばしたい。そう思って、今も月に一度、那覇に通い続けている。

[撮影=筆者]

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]

サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント(文=橋本倫史)