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「何のために学ぶのか」症候群

この社会は,学んでいる者に対して「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」と熱心に問いかける。そういう私も,かつては学生たちにしきりに「何のために学ぶのか」と問いかけ,学ぶ目的を意識するように働きかけていた。

今の私にとっては,この教育に携わる者たちを中心とした「何のために学ぶのか」問いかける習性に対して,猛烈な違和感がある。学ぶことに目的など必要ない。目的があったとしても「楽しいから」「知りたいから」で十二分だ。「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」という問いかけに対する答えが見つからなくてもいい。

「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」を考えることが,どうやら教育業界を中心として「正しいこと」だと信じられているようだ。けれども,それは果たして「正しいこと」なのか。「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」を考えることで,失われるもの,奪われるものはないのか。

「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」を考えることは,学んでいることに目的や目標を与えることだ。それによって何が生じるか。学んでいることを手段化してしまうことだ。もともと「楽しいから」「知りたいから」(他の目的もなく)学んでいたこと,それはつまり,学びそのものが目的であった。学ぶことが目的でなくなり,手段になってしまい,「〇〇のために学ぶ」「〇〇になるために学ぶ」となる。

もちろん,手段としての学び,「〇〇のために学ぶ」「〇〇になるために学ぶ」こと自体を否定するつもりはない。そういう学びもあっていいだろう。私が問題にしたいのは,そうした手段としての学ぶことが,あたかも,学びそのもの,あるいは,「正しい」学びのようになってしまうことだ。「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」と熱心に問いかける習性は,目的としての学び(学びたいから学ぶ)を,手段としての学び(ためにする学び)に置き換え,あたかも手段としての学びこそ「正しい」学びだと描き出すことになる。

「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」との問いかけは,もともと目的であった学びを手段にしてしまうだけではない。想像してみてほしい。面白くて夢中で学んでいるときに「それって何のために学んでんの」「それを学んでどうするの」と言われたらどう感じるか。「ただ面白いから」「学んでみないとわからない」と言い返せるだろうか。

多くの人々は,一旦夢中になって学んでいる世界から抜け出して,その問いに答えようとするだろう。しかし,その明確な答えはみあたらない。自分がやっていることについて答えられない自分が情けなくなる。さっきまで夢中で学んでいたことが,無駄のように思えてくる。「いま・ここ」にいた自分よりも,将来を見据えて目的をもって学ぶ自分の方がいいのかなと思えてくる。

実は「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」は「学ぶ目的を考えないのはおかしい」「それを学ぶ価値はない」という,いま学んでいることと「いま・ここ」にいることを否定するメッセージでもあるのだ。

残念ながら,今は「手段としての学び」の全盛期だ。もう人々は,他者から問いかけられなくても「何のために学ぶのか」「それを学んでどうするの」と常に自問自答し,目的としての学びを否定し,手段としての学びを好むようになってしまった。それは一種の病い,いわば「何のために学ぶのか」症候群である。


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